劉宣 密かに劉淵大単于策謀 737
「元康末(299) 坐部人叛出塞免官 成都王(司馬)穎鎮鄴
表元海行甯朔将軍 監五部軍事」
(晋書 巻一百〇一 載記第一 劉元海=劉淵 以後「」は同)
299年劉淵は「司馬穎(エイ)」(279~306)
(司馬炎の息子 成都王で八王の一人)の配下となっています。
司馬穎の根拠地は「鄴(ギョウ)(現在の河北省邯鄲市臨漳県)」
魏の曹操が本拠地とした所。
「惠帝失馭 寇盗蜂起 元海従祖故北部都尉 左賢王劉宣等窃議曰
昔我先人与漢約為兄弟 憂泰同之 自漢亡以来 魏晋代興
我単于雖有虚号 無復尺土之業 自諸王侯 降同編戸
今司馬氏骨肉相残 四海鼎沸
興邦復業 此其時矣
左賢王元海姿器絶人 幹宇超世 天若不恢崇単于 終不虚生此人也
於是密共推元海為大単于 乃使其党呼延攸詣鄴 以謀告之
元海請帰会葬 穎弗許 乃令攸先帰 告宣等招集五部
引会宜陽諸胡 声言応穎 実背之也」
*惠帝(259~307)・・司馬衷 司馬炎の息子 晋2代目皇帝
*劉宣(?~308)・・劉淵の祖父の弟、「漢」復興を企図
*呼延攸(?~310)・・劉淵の義弟
*五部・・匈奴五部
*宜陽・・現在の河南省洛陽市宜陽県
惠帝の失政による「寇盗(コウトウ)蜂起」(盗人・悪人の暴動)を鑑み
匈奴の劉宣らは密かに謀議・策謀します。その内容は
「昔、冒頓単于と劉邦は約し兄弟となり以後、憂いも安泰も同じくした。
漢が滅びて以来、魏・晋朝が代わって興った。
我々の単于は
今や「虚号」となり、治める領土もなく、諸王侯から民へ降下した。
今現在、「司馬氏」の「骨肉(=肉親)」同士が残虐行為に及び、
「四海(世の中)鼎沸(テイフツ)(喧騒=大騒ぎ)」の呈。
今こそ「興邦復業」(「邦=(国)」を興し「業(単于の事業)」)を
元に戻す、その時だ。
劉淵は正に「姿器絶人」、故にその人である。
天が彼を出現させたのだ。」
ここに於いて、密かに劉宣らは劉淵を「大単于」とし、
呼延攸を鄴に送り、その旨、劉淵に知らせた。
情況を察した劉淵は皆の元へ戻るべく司馬穎に葬儀を理由に故郷へ
帰りたいと願い出るも、あえなく拒否されます。
そこで、劉淵は呼延攸を先に帰らせ、匈奴五部兵を招集させる事に。
又、司馬穎の要請に応え「宜陽」に匈奴兵を集めたものの
実のところ、これは司馬穎を「背(叛)(そむ)」くつもりだったと。
続く。
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