劉淵 五部(匈奴)大都督に 736
劉淵は若かりし頃、魏・晋の都、洛陽で過ごしました。
「咸熙中 為任子在洛陽 文帝深待之 泰始之後 渾又屢言之于武帝
帝召与語 大悅之」
(晋書 巻一百〇一 載記第一 劉元海=劉淵)
*任子・・高級官僚子弟に与えられた官吏登用制度
咸熙(かんき 264~265)中は「任子」として洛陽に滞在、
司馬昭(211~265 司馬炎の父)はいたく気に入り近侍させ、
泰始(265~274)司馬炎(236~290在位265~290)が帝位を簒奪後、
劉淵はしばしば召し出され談義し司馬炎を大いに悦ばせたと。
「会(劉)豹卒 以元海代為左部帥 太康末(289) 拝北部都尉 略
五部俊傑無不至者 幽冀(州)名儒 後門秀士 不遠千里 亦皆遊焉
楊駿輔政 以元海為建威将軍 五部大都督」
(晋書 同上)
父、劉豹が亡くなると(279)、劉淵は父の役職「左部帥」を継ぎ、
洛陽から故郷、山西高原(南匈奴五部地域)に戻り、
289年には「北部都尉」を拝命します。
五部匈奴の「俊傑(優れ者)」らは劉淵を訪れない者は無く、
幽・冀州の名だたる儒者等々、遠路はるばる彼に会いに来たとか。
*幽州・・現在の河北・遼寧省、北京・天津市地域
*冀州・・現在の山西省地域
「楊駿輔政(290)(司馬炎崩御)」後、劉淵は
建威将軍・五部大都督となり南匈奴五部を統括するリーダに。
一方、中央の晋王朝はこの頃(291~)「八王の乱」、内部闘争へ。
この乱は司馬懿(179~251)の
息子、孫、曾孫達による権力闘争、内ゲバ(ルト)。
最終的に、司馬炎の孫、司馬鄴が殺害(317年)され「西晋」は滅亡。
この乱に関わらなかった琅邪国王、
「司馬睿(エイ)」(司馬懿の曾孫)は長江の南に逃れ「東晋」を建国。
*琅邪・・現在の山東省臨沂市 呂母の乱、呂母さんの故郷。
この間、劉淵は「西晋」から独立、「漢」を建国するのです。(304年)
続く。
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