劉淵 鄴より脱出左国城へ 738
「(司馬)穎為皇太弟(304/03) 以元海(=劉淵)為太弟屯騎校尉
惠帝伐穎 次於蕩陰 穎仮元海輔国将軍 督北城守事
及六軍敗績(304/07) 穎以元海為冠軍将軍 封盧奴伯
并州刺史東嬴公(司馬)騰 安北将軍王浚(幽州在)
起兵伐穎(304/08)
元海説穎曰
今二鎮跋扈 衆余十万 恐非宿衛及近都士庶所能禦之
請為殿下還説五部 以赴国難
穎曰
五部之衆可保発已不 縦能発之 鮮卑烏丸勁速如風雲
何易可当邪 吾欲奉乗輿還洛陽 避其鋒鋭 徐伝檄天下
以逆順制之 君意何如
元海曰
殿下武皇帝之子 有殊勲於王室 威恩光洽四海欽風
孰不思為殿下没命投体者哉 何難発之有乎 王浚竪子 東嬴疎属
豈能与殿下争衡邪 殿下一発鄴宮 示弱於人 洛陽可復至乎
縦達洛陽 威権不復在殿下也 紙檄尺書 誰為人奉之
且東胡之悍不逾五部 願殿下勉撫士衆 靖以鎮之
当為殿下以二部摧東嬴 三部梟王浚 二竪之首可指日而懸矣
穎悦 拝元海為北単于 参丞相軍事 元海至左国城
劉宣等上大単于之号 二旬之間 衆已五万 都于離石」
(晋書 巻一百〇一 載記第一 劉元海=劉淵)
*惠帝(259~307)・・司馬衷 司馬炎の息子 晋2代目皇帝
*蕩陰(トウイン)・・現在の河南省安陽市湯陰県 鄴の南に位置
*司馬騰(?~307)・・司馬越(?~311)(八王の一人)の弟
*王浚(252~314)・・司馬穎に叛旗を翻した将軍
*鮮卑烏丸・・鮮卑・烏丸族(旧東胡)
*離石・・左部(現在の山西省呂梁市離石区)
304年3月司馬穎は首尾・運良く皇太弟に。
しかし、惠帝と折り合いが悪く、惠帝自ら軍を率い司馬穎征伐決定。
304年7月彼は都、洛陽から司馬穎陣取る鄴を目指し「蕩陰」に着。
彼の地で両軍戦闘に陥り惠帝軍は敗北、惠帝は鄴で囚われの身に。
304年8月司馬騰と王浚は司馬穎を討伐の為、挙兵。
この事態を捉え劉淵は帰郷する旨、司馬騰へ説得工作。
劉淵と司馬騰との遣り取り
劉淵
今、「二鎮(并州の司馬騰・幽州の王浚)」が「跋扈」、兵は10万余り。
これを鄴の守備兵だけでは守れません。
私は「殿下(皇太弟、司馬頴)」の為、故郷に還り五部匈奴を説得、
鄴へ登り、この国難に対処致します。
司馬頴
五部匈奴は「風雲」の如く強くて速い「鮮卑・烏丸軍団」に勝てるか?
ここは、敵の鋭い矛先を避ける為、惠帝を擁し「洛陽」へ還り、
徐(おもむろ)に惠帝に「檄」を飛ばしてもらい、「逆順(逆の順序)」
ではあるが、「二鎮」を止め制すつもりだ。お前はどう思う?
劉淵
「殿下」は「武皇帝(司馬炎)」のご子息、
「殿下」の「殊勲(お手柄)」、「威光」、「恩恵」は
あまねく世に行き渡っております。
「殿下」の為、身命を投げ出さない者はおりません。
五部匈奴は必ずや立ち上がります。
王浚は子供、司馬騰は司馬懿直系ではありません。
どうして、この二人は「殿下」を倒せましょうか。
「殿下」が「鄴宮」を出れば二人に弱みを示す事に。
やぶさか「洛陽」に着いても「殿下」の「威・権」力はがた落ちです。
「紙檄尺書(檄文)」に誰が応じましょうか。
且(か)つ、匈奴「五部」軍は「東胡(鮮卑・烏丸)」軍に負けません。
どうか「殿下」は兵士をいたわり鄴をお守り下さい。
私は「殿下」の為に五部匈奴を引き連れ「二竪(=鎮)」の破り
彼らの首を晒して見せましょう。
この劉淵の進言に対し、司馬頴はいたく悦び承知。
劉淵はやっと鄴から脱出、故郷「左国城(左部の離石)」に帰還。
劉淵らは劉淵を「上大単于」とし、匈奴兵は20日間で劉淵の元に
已に5万人も馳せ参じ、都を「離石」にした。 続く。
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