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2020年9月26日 (土)

劉淵 鄴より脱出左国城へ 738

「(司馬)穎為皇太弟(304/03) 以元海(=劉淵)為太弟屯騎校尉
 惠帝伐穎 次於蕩陰 穎仮元海輔国将軍 督北城守事
 及六軍敗績(304/07) 穎以元海為冠軍将軍 封盧奴伯
 并州刺史東嬴公(司馬)騰 安北将軍王浚(幽州在)
 起兵伐穎(304/08)
 元海説穎曰
 今二鎮跋扈 衆余十万 恐非宿衛及近都士庶所能禦之
 請為殿下還説五部 以赴国難
 穎曰
 五部之衆可保発已不 縦能発之 鮮卑烏丸勁速如風雲
 何易可当邪 吾欲奉乗輿還洛陽 避其鋒鋭 徐伝檄天下
 以逆順制之 君意何如
 元海曰
 殿下武皇帝之子 有殊勲於王室 威恩光洽四海欽風
 孰不思為殿下没命投体者哉 何難発之有乎 王浚竪子 東嬴疎属
 豈能与殿下争衡邪 殿下一発鄴宮 示弱於人 洛陽可復至乎
 縦達洛陽 威権不復在殿下也 紙檄尺書 誰為人奉之
 且東胡之悍不逾五部 願殿下勉撫士衆 靖以鎮之
 当為殿下以二部摧東嬴 三部梟王浚 二竪之首可指日而懸矣
 穎悦 拝元海為北単于 参丞相軍事 元海至左国城
 劉宣等上大単于之号 二旬之間 衆已五万 都于離石」
(晋書 巻一百〇一 載記第一 劉元海=劉淵)
*惠帝(259~307)・・司馬衷 司馬炎の息子 晋2代目皇帝
*蕩陰(トウイン)・・現在の河南省安陽市湯陰県 鄴の南に位置
*司馬騰(?~307)・・司馬越(?~311)(八王の一人)の弟
*王浚(252~314)・・司馬穎に叛旗を翻した将軍
*鮮卑烏丸・・鮮卑・烏丸族(旧東胡)
*離石・・左部(現在の山西省呂梁市離石区)
304年3月司馬穎は首尾・運良く皇太弟に。
しかし、惠帝と折り合いが悪く、惠帝自ら軍を率い司馬穎征伐決定。
304年7月彼は都、洛陽から司馬穎陣取る鄴を目指し「蕩陰」に着。
彼の地で両軍戦闘に陥り惠帝軍は敗北、惠帝は鄴で囚われの身に。
304年8月司馬騰と王浚は司馬穎を討伐の為、挙兵。
この事態を捉え劉淵は帰郷する旨、司馬騰へ説得工作。
劉淵と司馬騰との遣り取り
 劉淵
今、「二鎮(并州の司馬騰・幽州の王浚)」が「跋扈」、兵は10万余り。
これを鄴の守備兵だけでは守れません。
私は「殿下(皇太弟、司馬頴)」の為、故郷に還り五部匈奴を説得、
鄴へ登り、この国難に対処致します。
 司馬頴
五部匈奴は「風雲」の如く強くて速い「鮮卑・烏丸軍団」に勝てるか?
ここは、敵の鋭い矛先を避ける為、惠帝を擁し「洛陽」へ還り、
徐(おもむろ)に惠帝に「檄」を飛ばしてもらい、「逆順(逆の順序)」
ではあるが、「二鎮」を止め制すつもりだ。お前はどう思う?
 劉淵
「殿下」は「武皇帝(司馬炎)」のご子息、
「殿下」の「殊勲(お手柄)」、「威光」、「恩恵」は
あまねく世に行き渡っております。
「殿下」の為、身命を投げ出さない者はおりません。
五部匈奴は必ずや立ち上がります。
王浚は子供、司馬騰は司馬懿直系ではありません。
どうして、この二人は「殿下」を倒せましょうか。 
「殿下」が「鄴宮」を出れば二人に弱みを示す事に。
やぶさか「洛陽」に着いても「殿下」の「威・権」力はがた落ちです。
「紙檄尺書(檄文)」に誰が応じましょうか。
且(か)つ、匈奴「五部」軍は「東胡(鮮卑・烏丸)」軍に負けません。
どうか「殿下」は兵士をいたわり鄴をお守り下さい。
私は「殿下」の為に五部匈奴を引き連れ「二竪(=鎮)」の破り
彼らの首を晒して見せましょう。
この劉淵の進言に対し、司馬頴はいたく悦び承知。
劉淵はやっと鄴から脱出、故郷「左国城(左部の離石)」に帰還。
劉淵らは劉淵を「上大単于」とし、匈奴兵は20日間で劉淵の元に
已に5万人も馳せ参じ、都を「離石」にした。 続く。

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2020年9月19日 (土)

劉宣 密かに劉淵大単于策謀 737

「元康末(299) 坐部人叛出塞免官 成都王(司馬)穎鎮鄴
 表元海行甯朔将軍 監五部軍事」
(晋書 巻一百〇一 載記第一 劉元海=劉淵 以後「」は同)
299年劉淵は「司馬穎(エイ)」(279~306)
(司馬炎の息子 成都王で八王の一人)の配下となっています。
司馬穎の根拠地は「鄴(ギョウ)(現在の河北省邯鄲市臨漳県)」
魏の曹操が本拠地とした所。

「惠帝失馭 寇盗蜂起 元海従祖故北部都尉 左賢王劉宣等窃議曰
 昔我先人与漢約為兄弟 憂泰同之 自漢亡以来 魏晋代興
 我単于雖有虚号 無復尺土之業 自諸王侯 降同編戸 
 今司馬氏骨肉相残 四海鼎沸
 興邦復業 此其時矣
 左賢王元海姿器絶人 幹宇超世 天若不恢崇単于 終不虚生此人也
 於是密共推元海為大単于 乃使其党呼延攸詣鄴 以謀告之
 元海請帰会葬 穎弗許 乃令攸先帰 告宣等招集五部
 引会宜陽諸胡 声言応穎 実背之也」
*惠帝(259~307)・・司馬衷 司馬炎の息子 晋2代目皇帝
*劉宣(?~308)・・劉淵の祖父の弟、「漢」復興を企図
*呼延攸(?~310)・・劉淵の義弟
*五部・・匈奴五部
*宜陽・・現在の河南省洛陽市宜陽県
惠帝の失政による「寇盗(コウトウ)蜂起」(盗人・悪人の暴動)を鑑み
匈奴の劉宣らは密かに謀議・策謀します。その内容は
「昔、冒頓単于と劉邦は約し兄弟となり以後、憂いも安泰も同じくした。
 漢が滅びて以来、魏・晋朝が代わって興った。
 我々の単于は
 今や「虚号」となり、治める領土もなく、諸王侯から民へ降下した。
 今現在、「司馬氏」の「骨肉(=肉親)」同士が残虐行為に及び、
 「四海(世の中)鼎沸(テイフツ)(喧騒=大騒ぎ)」の呈。
 今こそ「興邦復業」(「邦=(国)」を興し「業(単于の事業)」)を
 元に戻す、その時だ。
 劉淵は正に「姿器絶人」、故にその人である。
 天が彼を出現させたのだ。」
ここに於いて、密かに劉宣らは劉淵を「大単于」とし、
呼延攸を鄴に送り、その旨、劉淵に知らせた。
情況を察した劉淵は皆の元へ戻るべく司馬穎に葬儀を理由に故郷へ
帰りたいと願い出るも、あえなく拒否されます。
そこで、劉淵は呼延攸を先に帰らせ、匈奴五部兵を招集させる事に。
又、司馬穎の要請に応え「宜陽」に匈奴兵を集めたものの
実のところ、これは司馬穎を「背(叛)(そむ)」くつもりだったと。 
 続く。

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2020年9月12日 (土)

劉淵 五部(匈奴)大都督に 736

劉淵は若かりし頃、魏・晋の都、洛陽で過ごしました。

「咸熙中 為任子在洛陽 文帝深待之 泰始之後 渾又屢言之于武帝
 帝召与語 大悅之」
(晋書 巻一百〇一 載記第一 劉元海=劉淵)
*任子・・高級官僚子弟に与えられた官吏登用制度
咸熙(かんき 264~265)中は「任子」として洛陽に滞在、
司馬昭(211~265 司馬炎の父)はいたく気に入り近侍させ、
泰始(265~274)司馬炎(236~290在位265~290)が帝位を簒奪後、
劉淵はしばしば召し出され談義し司馬炎を大いに悦ばせたと。

「会(劉)豹卒 以元海代為左部帥 太康末(289) 拝北部都尉 略
 五部俊傑無不至者 幽冀(州)名儒 後門秀士 不遠千里 亦皆遊焉
 楊駿輔政 以元海為建威将軍 五部大都督」
(晋書 同上)
父、劉豹が亡くなると(279)、劉淵は父の役職「左部帥」を継ぎ、
洛陽から故郷、山西高原(南匈奴五部地域)に戻り、
289年には「北部都尉」を拝命します。
五部匈奴の「俊傑(優れ者)」らは劉淵を訪れない者は無く、
幽・冀州の名だたる儒者等々、遠路はるばる彼に会いに来たとか。
*幽州・・現在の河北・遼寧省、北京・天津市地域
*冀州・・現在の山西省地域
「楊駿輔政(290)(司馬炎崩御)」後、劉淵は
建威将軍・五部大都督となり南匈奴五部を統括するリーダに。
一方、中央の晋王朝はこの頃(291~)「八王の乱」、内部闘争へ。
この乱は司馬懿(179~251)の
息子、孫、曾孫達による権力闘争、内ゲバ(ルト)。
最終的に、司馬炎の孫、司馬鄴が殺害(317年)され「西晋」は滅亡。
この乱に関わらなかった琅邪国王、
「司馬睿(エイ)」(司馬懿の曾孫)は長江の南に逃れ「東晋」を建国。
*琅邪・・現在の山東省臨沂市 呂母の乱、呂母さんの故郷。
この間、劉淵は「西晋」から独立、「漢」を建国するのです。(304年)
 続く。

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2020年9月 5日 (土)

劉淵は文武両道でいい男 735

先週、劉淵が文才に長けていたお話をしましたが
匈奴の血を引く彼は武技にも優れ、立っ端も高かったお方とか。
イケメンだったかどうかは記述されてされていませんので不明。

「姿儀魁偉 身長八尺四寸 須長三尺余」
(晋書 巻一百〇一 載記第一 劉元海=劉淵)
劉淵時代の1尺24.2㎝として換算すると彼の身長は203㎝に。
又、「須(鬚 あごひげ)」は、なな何と72.6㎝余りと。(中国の度量衡)
立っ端はやや盛り気味と思われます。
鬚は盛り過ぎでは? 
この長さだとお股近辺まで到達してしまい邪魔くさいでしょう?
只、鬚も立派だったって事なのでしょう。十二分にお洒落ですよ?
三国志に「関羽」の鬚・髯(ほおひげ)が美しかったと書かれています。
「(関)羽美鬚髯 故(諸葛)亮謂之髯 羽省書大悦 以示賓客」
(三国志 巻三十六 蜀書六 関(羽)張(飛)馬(超)黄(忠)趙(雲)伝)
関羽は諸葛亮に鬚髯を褒められ悦んでいます。
いずれにせよ、劉淵は文武両道でいい男だったって事に。

出で立ちはこれ位にして、「劉元海=劉淵」について。
彼の姓(一族名)は「劉」、諱(本名)は「淵」、
字(成人後の呼び名)は「元海」です。
従って、「劉淵」が正式名(姓・諱)になります。
因みに、三国志での漢(=蜀漢)皇帝「劉備」の場合、
姓は「劉」、諱(いみな)は「備」、字(あざな)は「玄徳」です。
それでは、
なぜ、晋書が彼を「劉元海」としたかは一等最初に記述されてます。

「劉元海 新興匈奴人 冒頓之後也
 名犯高祖廟諱 (加注 名淵 与唐高祖同名) 故称其字焉」
(晋書 同上)
晋書の編纂年は唐時代(618~907)の648年とされています。
西(都、洛陽)晋(265~316)~東(都、建康=南京)晋(317~420)
鮮卑隋王朝(581~618)を倒し、鮮卑唐王朝を興した将軍は「李淵」。
唐初代皇帝、「李淵(566~635)」の諱が「淵」の為、劉淵→劉元海に。
いつの世も官僚(この時は「房玄齢(578~648)」)は忖度するのです。
続く。

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