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2020年8月 1日 (土)

南匈奴 魏曹操軍の騎馬戦士 733

南匈奴は漢軍と連携して雁門を越え、鮮卑帝国に侵入、
檀石槐に戦いを挑みますが壊滅的な反撃を食らい敗退の呈。(177年)
*雁門
山西省北部にある山。中国北辺守備の重要な地点。雁山。句注山。
(日本国語大辞典 小学館)
やがて、時代は黄巾の乱(184年) → 三国時代へ。
「搾取される民 黄巾の乱へ」
「204年公孫康が帯方郡設置」 でご確認下さい。
当時の南単于は
「羌渠(きょうきょ)179~」
→ 「於扶羅(おふら)188~(羌渠の息子)」
→ 「呼廚泉(こちゅうせん)195~(於扶羅の弟)」。

「単于羌渠 光和二年立(179年) 中平四年(187年)
 前中山太守張純反畔 遂率鮮卑寇辺郡 霊帝詔発南匈奴兵
 配幽州牧劉虞討之 単于遣左賢王将騎詣幽州 国人恐単于発兵無已
 五年(188年) 右部虾落与休著各胡白馬銅等十余万人反 攻殺単于
 単于羌渠立十年 子右賢王於扶羅立
 持至尸逐侯単于於扶羅 中平五年立
 国人殺其父者遂畔 共立須卜骨都侯為単于 而於扶羅詣闕自訟
 会霊帝崩 天下大乱 単于将数千騎与白波賊合兵寇河内諸郡
 時民皆保聚 鈔掠無利 而兵遂挫傷 復欲帰国 国人不受 乃止河東
 須卜骨都侯為単于一年而死 南庭遂虚其位 以老王行国事
 単于於扶羅立七年死 弟呼廚泉立(195年)
 単于呼廚泉 興平二年立 以兄被逐 不得帰国 数為鮮卑所鈔
 建安元年(196年) 献帝自長安東帰 右賢王去卑与白波賊帥韓暹等
 侍衛天子 拒撃李傕 郭汜 及車駕還洛陽 又徙遷許 然後帰国
 二十一年(216年) 単于来朝 曹操因留於鄴 而遣去卑帰監其国焉」
 (後漢書 巻八十九 南匈奴列伝)
「建安中(196~220) 魏武帝(曹操)始分其衆為五部
 部立其中貴者為帥 選漢人為司馬以監督之」
(晋書 巻九十七 四夷伝)
*霊帝・・156~189 帝位168~189
*白波賊・・「董卓 養子の呂布に殺害される」 でご確認を。
*河内諸郡・・現在の河南省
*河東・・現在の山西省西南地区
*献帝・・「董卓 陳留王を帝位に」 でご確認を。
*去卑・・呼廚泉の叔父
*鄴(ぎょう)・・現在の河北省邯鄲市臨漳県

単于羌渠は黄巾の乱が起こると漢軍と共に反乱軍と戦います。
188年右部の虾落と休著各胡の白馬銅らが反旗を翻し羌渠を殺害。
後、於扶羅が単于となるも反対勢力は別の単于を擁立。
ここでも内紛分裂を来します。
189年霊帝が崩御すると「天下大乱」に陥ります。
於扶羅の南匈奴軍数千騎は白波賊と合流、「河内諸郡」で狼藉に
及ぶも成果は上がらず、負傷兵も出帰国を望むも反対勢力の拒絶を
受け、「河東」に留まざるをえなかったとか。
195年於扶羅が死去、弟の呼廚泉が単于に。紆余曲折、時が流れ、
216年呼廚泉は曹操(魏国)に入朝、その後「鄴」に抑留されたと。
鄴は曹操の根拠地で「魏」の都。
この頃、
南匈奴は曹操により、山西高原に移住、
左・右・南・北・中の5地区に分割
(現在の
 山西省呂梁市汾陽市・・左部
 山西省晋中市・・右部
 山西省臨汾市・・南部
 山西省忻州市・・北部
 山西省呂梁市文水県・・中部) され、
魏曹操軍の騎馬戦士として活躍したのです。 続く。

今年は春よりコロナ禍、暫し夏休みを頂きます。

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