« 2020年7月 | トップページ | 2020年9月 »

2020年8月29日 (土)

冒頓単于の末裔 劉淵登場 734

夏休み終了、貴重な日本国リーダー辞任も本日より再スタートします。

三国時代の覇者は魏・曹操となり、やがて魏は晋へと変遷するのは
周知の通りです。

「魏・蜀・呉(三国時代)」
「死諸葛(孔明)走生(司馬懿)仲達」
「張華と陳寿(壽)の歩み」
「陳寿(壽)の素敵な人となり」
「司馬炎 妓妾五千人入宮」
「賈皇后→張華→三国志」
「賈后政権奪取に貢献 張華」
「賈后 庶民出の張華を重用」
「300年4月張華絶命」 をご確認下さい。

南匈奴の皆さんが魏・曹操により塞内の山西高原に移住させられ
五部に分割された件は前回紹介しました。
この五部の左部帥(領主)になったのが単于於扶羅の息子「劉豹」。
南匈奴の単于名は216年曹操により鄴に抑留された呼廚泉で終了。
これ以降、史書で於扶羅一族等は「姓」を「劉」と記述されます。

「漢高祖以宗女為公主 以妻冒頓 約為兄弟 故其子孫遂冒姓劉氏」
(晋書 巻一百〇一 載記第一 劉元海(=劉淵))
「劉」は「平城・白登山の戦い」(B.C.200)で
匈奴の冒頓単于が漢帝国の「劉邦」皇帝に勝利した後、
「冒頓・劉邦 昆(兄)弟の契り」を交わし、姻戚関係を結んだ結果。
この劉豹(リュウヒョウ)の息子が「劉淵」(?~310)。

「幼好学 師事上党崔游 習 毛詩 京氏易 馬氏尚書
 尤好 春秋左氏伝 孫吳兵法 略皆誦之
 史漢諸子 無不綜覧」
(晋書 巻一百〇一 載記第一 劉元海(=劉淵))
劉淵は幼い時から学ぶ事が大好きで「崔游」に事え
「毛詩(詩経)」・「京氏易(易経)」・「馬氏尚書(書経)」を習い
「春秋左氏伝」・「孫(孫子)吳(呉子)兵法」を好み暗誦し
「史書」・「漢書」・「諸子(百家)」等々、目を通したと。
これって殆ど過去の全ての文献を学習したって事に。
これが事実であったら、思わず、頭が下がってしまいます。
話半分としても「凄い」ってもの。
*詩経
中国最古の詩集で、五経の一つ。三〇五編。撰者未詳。
孔子が約三〇〇〇の古詩から選んだものともいう。風・雅・頌の
三部から成り、風は国風ともいい、黄河流域の諸国の民謡で一五
に分かれ、雅は周王朝の宮廷歌で大雅・小雅の二つに分かれ、頌
は祖先神をまつる歌で周頌・魯頌・商頌の三つに分かれる。
ほぼ紀元前一一~六世紀間の歌と推定され、四言の詩型を中心と
して、くりかえしが多い。漢の毛亨(もうこう)が伝えた書が唯一の完
本であるため「毛詩」ともいう。毛亨の伝、鄭玄の注、唐の孔穎
達(くえいだつ)の疏が古注の標準で、宋の朱熹の「詩集伝」が新注と
呼ばれる。詩。毛詩。
*易経
中国五経の一つ。陽を-印、陰を--印で示し、それを組み合わせ
た六十四卦によって自然と人生の変化の道理を説いた書。
各卦を説明する暗示的な卦辞に対して、さらに「十翼」と称せら
れる解説がつけられ、儒家的な宇宙観、倫理観を表わすようにな
った。作者として、周の文王、周公、孔子が擬せられるが、卦辞
は周代の巫女のメモ、十翼も春秋から戦国にかけての諸家の作と
考えられる。
漢代には、主に予言や占いの書として用いられた。周易。易。
*書経
中国の経書。五経の一つ。孔子の編という。「書経」の名は「尚書」
の宋代以後の称。
堯舜時代から秦の穆公に至る古記録を一〇〇編にまとめたもの。
古代の政治における君臣の言行の模範とすべきものを集めたもの
で、史書としての価値も高い。現行のものは東晉の梅賾の依託に
なる「孔安国伝古文尚書」五八編であり、「偽古文尚書」といわれ
る。漢代には孔子の旧宅から発見された「孔壁古文」といわれる
「古文尚書」五八編と秦の博士伏生の伝えた「今文尚書」二九編
があったが、いずれも今は諸書に断片として伝わるだけである。
注釈書として漢の孔安国伝、唐の孔穎達疏の「尚書正義」が著名。
*春秋左氏伝
中国の十三経の一つ。魯の歴史を書いた「春秋」の解釈書。三〇
巻。著者は左丘明、魏の史官左氏、劉歆(りゅうきん)の偽作という三
説がある。漢代に劉歆によって校訂流布された。一説に「春秋」
とは無関係で独立の史書ともいう。「春秋」の記述に合わせて史実
や史話で解説。古注として晉の杜預(どよ)の「春秋左氏経伝集解(し
っかい)」と唐の孔穎達(くえいだつ)の「春秋左伝正義」が有名。
公羊(くよう)伝、穀梁伝とともに「春秋三伝」といわれる。春秋左氏伝。
左氏春秋。左伝。
(日本国語大辞典 小学館) 続く。

| | コメント (0)

2020年8月 1日 (土)

南匈奴 魏曹操軍の騎馬戦士 733

南匈奴は漢軍と連携して雁門を越え、鮮卑帝国に侵入、
檀石槐に戦いを挑みますが壊滅的な反撃を食らい敗退の呈。(177年)
*雁門
山西省北部にある山。中国北辺守備の重要な地点。雁山。句注山。
(日本国語大辞典 小学館)
やがて、時代は黄巾の乱(184年) → 三国時代へ。
「搾取される民 黄巾の乱へ」
「204年公孫康が帯方郡設置」 でご確認下さい。
当時の南単于は
「羌渠(きょうきょ)179~」
→ 「於扶羅(おふら)188~(羌渠の息子)」
→ 「呼廚泉(こちゅうせん)195~(於扶羅の弟)」。

「単于羌渠 光和二年立(179年) 中平四年(187年)
 前中山太守張純反畔 遂率鮮卑寇辺郡 霊帝詔発南匈奴兵
 配幽州牧劉虞討之 単于遣左賢王将騎詣幽州 国人恐単于発兵無已
 五年(188年) 右部虾落与休著各胡白馬銅等十余万人反 攻殺単于
 単于羌渠立十年 子右賢王於扶羅立
 持至尸逐侯単于於扶羅 中平五年立
 国人殺其父者遂畔 共立須卜骨都侯為単于 而於扶羅詣闕自訟
 会霊帝崩 天下大乱 単于将数千騎与白波賊合兵寇河内諸郡
 時民皆保聚 鈔掠無利 而兵遂挫傷 復欲帰国 国人不受 乃止河東
 須卜骨都侯為単于一年而死 南庭遂虚其位 以老王行国事
 単于於扶羅立七年死 弟呼廚泉立(195年)
 単于呼廚泉 興平二年立 以兄被逐 不得帰国 数為鮮卑所鈔
 建安元年(196年) 献帝自長安東帰 右賢王去卑与白波賊帥韓暹等
 侍衛天子 拒撃李傕 郭汜 及車駕還洛陽 又徙遷許 然後帰国
 二十一年(216年) 単于来朝 曹操因留於鄴 而遣去卑帰監其国焉」
 (後漢書 巻八十九 南匈奴列伝)
「建安中(196~220) 魏武帝(曹操)始分其衆為五部
 部立其中貴者為帥 選漢人為司馬以監督之」
(晋書 巻九十七 四夷伝)
*霊帝・・156~189 帝位168~189
*白波賊・・「董卓 養子の呂布に殺害される」 でご確認を。
*河内諸郡・・現在の河南省
*河東・・現在の山西省西南地区
*献帝・・「董卓 陳留王を帝位に」 でご確認を。
*去卑・・呼廚泉の叔父
*鄴(ぎょう)・・現在の河北省邯鄲市臨漳県

単于羌渠は黄巾の乱が起こると漢軍と共に反乱軍と戦います。
188年右部の虾落と休著各胡の白馬銅らが反旗を翻し羌渠を殺害。
後、於扶羅が単于となるも反対勢力は別の単于を擁立。
ここでも内紛分裂を来します。
189年霊帝が崩御すると「天下大乱」に陥ります。
於扶羅の南匈奴軍数千騎は白波賊と合流、「河内諸郡」で狼藉に
及ぶも成果は上がらず、負傷兵も出帰国を望むも反対勢力の拒絶を
受け、「河東」に留まざるをえなかったとか。
195年於扶羅が死去、弟の呼廚泉が単于に。紆余曲折、時が流れ、
216年呼廚泉は曹操(魏国)に入朝、その後「鄴」に抑留されたと。
鄴は曹操の根拠地で「魏」の都。
この頃、
南匈奴は曹操により、山西高原に移住、
左・右・南・北・中の5地区に分割
(現在の
 山西省呂梁市汾陽市・・左部
 山西省晋中市・・右部
 山西省臨汾市・・南部
 山西省忻州市・・北部
 山西省呂梁市文水県・・中部) され、
魏曹操軍の騎馬戦士として活躍したのです。 続く。

今年は春よりコロナ禍、暫し夏休みを頂きます。

| | コメント (0)

« 2020年7月 | トップページ | 2020年9月 »