冒頓・劉邦 昆(兄)弟の契り 729
匈奴冒頓に命を助けられた劉邦は
「劉敬」を使者として
冒頓単于と「和親の約(=停戦協定)」を結びます。
この後、漢の将軍だった「韓王信」は匈奴の将軍になり、
彼の配下の「王黄」「趙利」らと共に漢との停戦協定を破り、
「代」「雲中」へ侵攻・略奪に及びます。
幾ばくも無く、鉅鹿(現在の河北省邢台市)の郡守、「陳豨」が
漢を裏切り「韓王信」と謀り「代」を撃破します。
漢は将軍「樊噲」を派遣し、
「代」「鴈門」「雲中」の諸郡県を奪還しますが、
これより北の匈奴の地に侵入することはしませんでした。
この後も、
この地に派遣された漢の多くの将軍が匈奴冒頓に降ります。
これにより、
漢降伏軍・匈奴軍は「代」の各地に度々侵入、略奪行為に及びます。
この事態に劉邦は頭を悩ませ、匈奴冒頓への懐柔作戦に出ます。
再び、「劉敬」を使者に立て和睦を冒頓に提案、
その和睦条件は
1 「宗室女公主(劉邦の縁故女性)」を冒頓の奥様の一人とする
2 毎年、綿・絹・酒・米・食糧を各々一定量、贈答する
これに冒頓は応じ、劉邦と「昆(兄)弟」国の契りを結ぶのです。
基本的に兄は冒頓で弟は劉邦と云う関係になります。
この後、冒頓は漢の地に足を踏み込む事を中止します。
しかし、漢帝国北東辺境「燕」国王、「盧綰」が兵士数千人を引き連れ
匈奴冒頓に寝返る始末。彼らは匈奴と燕国の地を行き来し
「上谷(現在の北京市)」郡以東の民を苦しめたとか。
冒頓単于は漢との和睦後、西域の「月氏」部族らの制圧に赴くのです。
そちらに関しては
「冒頓単于が匈奴を大強国に」をご確認下さい。
従って、征圧時系列は
「東胡征圧」 ⇒ 「漢との和親条約」 ⇒ 「月氏部族ら制圧」
となります。
やがて、劉邦は天命を全うし崩御します。(B.C.195)
以後、劉邦の奥様、「呂太后」(B.C.241~B.C.180)と
息子の「孝恵(恵帝)」(B.C.210~B.C.188)が政を司ります。
「呂太后」は冒頓(?~B.C.174)の「妄言」で征伐軍派遣を考慮するも
諸将軍から「平城・白登山の戦い」敗北例を諫言され
討伐郡遠征を取り止め、再び、匈奴との「昆(兄)弟国の契り」を
継続する事に相成ったのです。
これにて、冒頓単于は匈奴をアジア大陸の最大帝国にしたのです。
続く。
尚、上記の原文・読み下しは
「冒頓vs.劉邦 平城・白登山の戦い」でご確認下さい。
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