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2020年7月25日 (土)

北匈奴滅び檀石槐が鮮卑帝国 732

南匈奴と漢は結託し、次第に北匈奴の力を削ぎ落とします。
更に北匈奴にとって痛手となったのはB.C.200年以前
冒頓単于が匈奴の東の隣国「東胡」を滅ぼした末裔「鮮卑族」の存在。
(その件は「冒頓単于は合理→冷静沈着」でご確認を)
*鮮卑
 鮮卑山麓(大興安嶺山脈北端、現在の黒竜江省)に逃れた東胡人
約290年後、87年鮮卑族は北匈奴と戦い、単于を殺害したのです。
鮮卑族は匈奴に属していたのですが、北匈奴が衰えるのを見て
族長「於仇賁(おきゅうほん)」が漢王朝光武帝に朝貢、
「鮮卑王」の称号を得ていたのです。(54年)
そして、北匈奴は南匈奴・漢・鮮卑の攻勢により壊滅的な打撃を受け
崩壊してしまうのです。(91年)
北匈奴の民の大半は南匈奴へ逃れ、
北単于一族らは「康居(こうきょ)」へ逃走したとされています。
*康居
 現在のカザフスタン南部・キルギス地域
「三国志 烏丸鮮卑東夷伝」の鮮卑(注魏書)に依ると時代が一挙に
50年弱ほど飛び「檀石槐(たんせきかい)」が登場するのです。

「匈奴及北単于遁逃後 中略 号檀石槐 長大勇健 智略絶衆
 中略 東西部大人皆帰焉 兵馬甚盛 南鈔漢辺 北拒丁令
 東却夫余 西撃烏孫 尽拠匈奴故地 東西万二千余里
 南北七千余里 罔羅山川 水沢 塩池甚広 中略 」
*丁令
 紀元前三世紀から五世紀にかけて、北アジア(バイカル湖近辺)
 に遊牧したトルコ系民族の名。(日本国語大辞典 小学館)
檀石槐は鮮卑族長になり、冒頓単于の匈奴帝国(「匈奴故地」)を
手中に収め「鮮卑帝国」を築き上げたのです。

「漢患之 桓帝時 使匈奴中郎将張奐征之 不克 乃更遣使者齎印綬
 即封檀石槐爲王 欲与和親 檀石槐拒不肯受 寇鈔滋甚」
桓帝時・・132~167 帝位146~167
桓帝は檀石槐を鮮卑王とし和親を結ぼうとしますが、
檀石槐はこれを拒否、甚だ滋く漢へ侵入・略奪行為に及ぶのです。

「乃分其地為中東西三部
 従右北平以東至遼 東接夫余 濊貊為東部 二十余邑
 (其大人曰彌加 闕機 素利 槐頭)
 従右北平以西至上谷為中部 十余邑
 (其大人曰柯最 闕居 慕容等 為大帥)
 従上谷以西至敦煌 西接烏孫為西部 二十余邑
 (其大人曰置鞬落羅 曰律推演 宴荔游等 皆為大帥)
 而制属檀石槐」
檀石槐は鮮卑帝国を「中・東・西」と三分割し各々に部族長を配置。
東部・・大興安嶺以東
中部・・現在の北京市北部
西部・・モンゴル高原西部
部族長名までも細かく記載されていますので
漢の間諜(スパイ)が鮮卑帝国に深く潜入情報を得ていたと考えます。
 続く。

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2020年7月18日 (土)

兄弟分裂で南匈奴と北匈奴に 731

漢帝国に対峙できなくなった匈奴は内部分裂を起こします。
この対立を収束したのが「呼韓邪(こかんや)単于」。
彼は漢王朝に参内、よしみを結びます。
時の皇帝は儒教をこよなく愛した
元帝(B.C.74~B.C.33 在位B.C.48~B.C.33)。
「前漢末 儒教一世風靡」をご確認下さい。)
元帝は呼韓邪単于にその世の絶世の美女と云われた「王昭君」を
与える程、欣喜雀躍。
男尊女卑の儒教ならではの「女性」の贈与、如何なものかと考えます。
一方、呼韓邪は彼女を大切に扱い「閼氏」とし、
王昭君は彼の死後、匈奴文化に従い違和を感じながらも
呼韓邪の息子の妻になっています。
そんなこんなで、漢・匈奴に和平な世が訪れました。
しかし、平和な時代はつかの間。
「王莽(B.C.45~A.D.23)」の時代になると
「新王朝」は匈奴に辛く当たります。
「王莽 大司馬~摂皇帝に」「王政君崩御 地球寒冷化?」を。)
漢・匈奴関係は一転悪化してしまうのです。
この後、時の経過、
「呂母の乱から赤眉軍結集」
「赤眉軍に触発され緑林軍決起」
「二つの中国 王莽・劉玄帝」
「王莽23年間トップ本望を遂げる」
「赤眉軍 漢書記述ほんの少々」
「赤眉軍 劉盆子立て更始帝打倒」
「二つの中国 劉盆子・劉秀帝」
「赤眉蜂起軍 樊崇 花と散る」
「光武帝 漢王朝復活」
と光武帝(B.C.6~57 帝位25~57)が漢王朝(後漢)を復活。
この間、匈奴は兄弟内部分裂抗争を来してしまいます。
48年呼韓邪単于の孫の一人、「比」は匈奴から独立、
一部の部族長達の推挙で単于となり「南匈奴」を打ち立てます。
単于名は祖父にあやかり「呼韓邪単于(本名、醢落尸逐鞮単于)」と。
この後、元の匈奴は「北匈奴」と称された。(南北は住居地による)
醢落尸逐鞮(かいらくしちくてい)単于は漢王朝光武帝に恭順。
北匈奴と漢との防壁となる旨申し出、祖父時代のよしみを復興。
漢王朝と北匈奴部族との戦いへの道に突き進むのです。 続く。

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2020年7月11日 (土)

匈奴帝国 漢武帝の切り崩し 730

冒頓単于が統治した匈奴帝国は
西のアルタイ山脈~東の大興安嶺に渡る広大な領域。
現在のほぼモンゴルと内蒙古自治区を合わせた空間。(侵食地域除く)
冒頓は漢帝国と兄弟に契りを結び、
漢の「呂太后」・「孝恵(恵帝)(漢2代皇帝)」を手玉に取る始末。
しかし、冒頓にも永遠(とわ)の命は与えられません。
匈奴を大帝国に導いた冒頓はB.C.174に他界します。
彼無き後、匈奴帝国は衰退の一途を辿る事になるのです。
司馬遷が「史記」を執筆している時期、
「司馬遷 郎中・太史・中書令 史記成立」をご確認下さい。)
武帝(漢7代皇帝)(B.C.156~B.C87)(在位B.C.141~B.C87)時代、
(韓半島の楽浪郡等「漢四郡」設置もこの頃です。)
「戦乱中 商人(華商)・難民避難」をご確認下さい。)
武帝は領土拡張策に転じ、匈奴帝国切り崩しを謀ります。
漢帝国は
先ず、オルドス・バヤンノール(現在の内モンゴル自治区)等を奪還、
続いて、現在の甘粛省・青海省北部へ攻撃、
更に、現在の新疆ウイグル自治区
(シルクロード中継地区、トルファン・カシュガル等)を征圧します。
この攻勢に匈奴帝国は支配地域を縮小する事に。
やがて、冒頓単于に滅ぼされ恭順した
「冒頓単于は合理→冷静沈着 烏丸(桓)」でをご確認下さい。)
東胡の末裔、烏桓一族は弱体化した匈奴への怨念を晴らす為
歴代単于の墓地を荒らす事件が発生、
時の単于は烏桓一族を撃退するも、
この内乱に乗じて漢軍は遼東から出撃、烏桓一族を殲滅する事態に。
匈奴軍は漢軍との戦闘は避け、漢帝国の支配下に落ちた西域の烏孫
へ攻撃、現在の新疆ウイグル自治区を奪還したものの漢の援軍により
逆に撃退される顛末。
そんなこんなで匈奴は益々力を失って行くのです。 続く。

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2020年7月 4日 (土)

冒頓・劉邦 昆(兄)弟の契り 729

匈奴冒頓に命を助けられた劉邦は
「劉敬」を使者として
冒頓単于と「和親の約(=停戦協定)」を結びます。
この後、漢の将軍だった「韓王信」は匈奴の将軍になり、
彼の配下の「王黄」「趙利」らと共に漢との停戦協定を破り、
「代」「雲中」へ侵攻・略奪に及びます。
幾ばくも無く、鉅鹿(現在の河北省邢台市)の郡守、「陳豨」が
漢を裏切り「韓王信」と謀り「代」を撃破します。
漢は将軍「樊噲」を派遣し、
「代」「鴈門」「雲中」の諸郡県を奪還しますが、
これより北の匈奴の地に侵入することはしませんでした。
この後も、
この地に派遣された漢の多くの将軍が匈奴冒頓に降ります。
これにより、
漢降伏軍・匈奴軍は「代」の各地に度々侵入、略奪行為に及びます。
この事態に劉邦は頭を悩ませ、匈奴冒頓への懐柔作戦に出ます。
再び、「劉敬」を使者に立て和睦を冒頓に提案、
その和睦条件は
1 「宗室女公主(劉邦の縁故女性)」を冒頓の奥様の一人とする
2 毎年、綿・絹・酒・米・食糧を各々一定量、贈答する
これに冒頓は応じ、劉邦と「昆(兄)弟」国の契りを結ぶのです。
基本的に兄は冒頓で弟は劉邦と云う関係になります。
この後、冒頓は漢の地に足を踏み込む事を中止します。
しかし、漢帝国北東辺境「燕」国王、「盧綰」が兵士数千人を引き連れ
匈奴冒頓に寝返る始末。彼らは匈奴と燕国の地を行き来し
「上谷(現在の北京市)」郡以東の民を苦しめたとか。
冒頓単于は漢との和睦後、西域の「月氏」部族らの制圧に赴くのです。
そちらに関しては
「冒頓単于が匈奴を大強国に」をご確認下さい。
従って、征圧時系列は
「東胡征圧」 ⇒ 「漢との和親条約」 ⇒ 「月氏部族ら制圧」
となります。
やがて、劉邦は天命を全うし崩御します。(B.C.195)
以後、劉邦の奥様、「呂太后」(B.C.241~B.C.180)と
息子の「孝恵(恵帝)」(B.C.210~B.C.188)が政を司ります。
「呂太后」は冒頓(?~B.C.174)の「妄言」で征伐軍派遣を考慮するも
諸将軍から「平城・白登山の戦い」敗北例を諫言され
討伐郡遠征を取り止め、再び、匈奴との「昆(兄)弟国の契り」を
継続する事に相成ったのです。
これにて、冒頓単于は匈奴をアジア大陸の最大帝国にしたのです。
 続く。

尚、上記の原文・読み下しは
「冒頓vs.劉邦 平城・白登山の戦い」でご確認下さい。

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