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2020年6月27日 (土)

白登山の戦い冒頓勝利 728

「史記 巻百十一 匈奴列伝 第五十」
「冒頓与韓王信之将王黄 趙利期 而黄利兵又不来 疑其与漢有謀
 亦取閼氏之言 乃解囲之一角 於是高帝令士皆持満伝 矢外郷
 従解角直出 竟与大軍合 而冒頓遂引兵而去 漢亦引兵而罷」

「史記 巻五十六 陳丞相世家 第二十六」
「囲以得開 高帝既出 其計秘 世莫得聞」

冒頓は奥様の進言もさることながら、
それ以上に
「韓王信」の将軍、「王黄」「趙利」軍が未だ平城に到着せず、
漢軍に寝返ったのではないかと疑心暗鬼状況だったのです。
そこで彼は彼女の言を取入れ、囲みの一角を解放したのです。
これにより劉邦は兵士達に矢をいっぱい引き絞るよう命令、その矢を
匈奴軍に向けさせ、解放された一角から直ちに遁走し後続軍と合流。
冒頓は兵を引き平城を去り、漢軍も退去。
これにて、平城・白登山の戦いは終焉を迎えたのです。
当然、この戦いは匈奴冒頓軍の完全勝利です。
冒頓が日和らず、冬の凍てつく中、今暫し劉邦軍を兵糧攻めにし、
「王黄」「趙利」軍の到着を待たなくても、
平城・白登山に籠もる劉邦軍を殲滅、劉邦の首を取れた筈では?
但し、歴史に「もしは禁物」。
気になるのは「陳平」の秘策。
何せ、「史記」に彼の計略は「秘」とされ、
誰も知るよしがないと記されているのです。(其計秘 世莫得聞)
この秘計は閼氏さんの嫉妬心をくすぐる策であったと
後の世で云われた事になっています。
(冒頓の漢帝国制覇により漢の美女が彼に首ったけ話)
但し、このお話は中国特有の歪曲事。
劉邦軍が完膚無きまで冒頓軍に敗北した事実を「秘」したのです。
ここは、冒頓単于の「太っ腹」を司馬遷が示唆したと考える箇所では。
 続く。

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2020年6月20日 (土)

陳平秘策の誘惑に閼氏負ける 727

匈奴冒頓軍の平城・白登山包囲作戦により劉邦軍は後続軍と
7日間も分断されたのです。
劉邦は危険を感じこの膠着状態から脱却する策を打ち出す事に。

「史記 巻百十一 匈奴列伝 第五十」では
「高帝乃使使間厚遺閼氏 閼氏乃謂冒頓曰 両主不相困 今得漢地
 而単于終非能居之也 且漢王亦有神 単于察之」

「史記 巻五十六 陳丞相世家 第二十六」では
「卒至平城 為匈奴所囲 七日不得食 高帝用陳平奇計 使単于閼氏」

上記から
その策は「陳平」の秘策で「冒頓の妻(閼氏)への懇願・贈答作戦」。
*陳平(?~B.C.178)
中国、前漢初期の功臣。項羽の臣から高祖劉邦に投じ、
奇策を用いて功をたてた。恵帝の時左丞相に、のち右丞相になる。
呂氏の乱には周勃と力を合わせ平定した。
(日本国語大辞典 小学館)
と云う事は冒頓の妻(閼氏)さんもこの戦場に参加していた事に。
匈奴は遊牧騎馬民族ですので女性も当然騎乗できます。
彼女らは「キングダム 山の民王『楊端和』」のような女性戦士ではなく
従軍男性戦士達に同行、身の回り世話をしていたと考えます。
「楊端和」は「婦好」さんをモデルにしているのでは?
*婦好・・殷第23代王武丁の奥様で女将軍だったとされています。
又、劉邦の密使が四方固める敵陣にいとも簡単に滑る込めると
思われないことは置いておきます。
冒頓の妻(閼氏)さんは白登山囲み解き条件として
「絵にも描けないさぞ素敵な贈り物」を密使から受け取ったのでしょう。
彼女はなぜこの誘惑に負けてしまった謎も置いておきます。
閼氏さんは冒頓に進言、
「『両主(冒頓と劉邦)』が苦しめあってはいけないわ
 漢の領地を得ても貴男はそこに留まれないでしょう
 『漢王(=劉邦)』もまた、神のご加護があるやも
 そこのとこ、よーくお考えになって」と。 続く。

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2020年6月13日 (土)

冒頓 五行説五方色で劉邦包囲 726

平城・白登山に立て籠もる劉邦先陣部隊を包囲した匈奴冒頓軍は
何と精鋭40万騎兵。(平城・白登山の戦い)
この為、「7日」間、後続部隊は劉邦先陣軍を救出する事も
「餉(かれいい)」(食糧)補給もままなりませんでした。
この劉邦軍に対する匈奴冒頓軍の包囲網は
「史記 巻百十一 匈奴列伝 第五十」に下記の様に記述されています。

「西方尽白馬(芦毛・白毛)
 東方尽青駹馬
 北方尽烏驪馬
 南方尽騂馬」 (鹿毛=赤褐色)

西側・・白馬⇒白毛・芦毛馬
東側・・青駹馬⇒青毛斑(ぶち)馬 青駹(セイボウ)
北側・・烏驪馬⇒黒毛馬 烏驪(ウリ)
南側・・騂馬⇒赤黄毛馬 騂(セイ)

40万騎の配置が記されていません。
思うに、南側が一番防備が必要ですので半分の20万騎。
西側が白毛・芦毛馬軍とされていますので5万騎。
(白毛・芦毛馬は確率的に生まれるのがすくない為)
東側・北側は7.5万騎づつってな感じかしら
ところで、皆さん方位・色配色でお気づきになりません?
そうです、古代中国の「五行説の五方」配色になっているのです。
(因みに、皇帝劉邦は「黄色」)

陰陽五行説 五方

匈奴の冒頓は「五行説(思想)」知識があったのでしょうか?
それとも、匈奴に降伏、冒頓配下の「韓王信」の入れ智恵策か?
あるいは、武帝の匈奴征圧に良しとしない司馬遷の脚色か?
わたくしどもZIPANGUは司馬遷の彩(いろど)りと考えます。
尚、五行説の子細は「五行説の五行配当模様」をご確認下さい。
 続く。

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2020年6月 6日 (土)

冒頓 劉邦を白登山に誘い込む 725

劉邦が項羽を自害に追いやり中国を統一。(B.C.202)
「漢帝国成立 劉邦 武帝 司馬遷 」
郡国制(分封建国制)を敷き、「代」国に「韓王信」を送り込みます。
先週紹介の「史記 巻百十一 匈奴列伝 第五十」をご確認下さい。
しかし、間もなく匈奴に代の都「馬邑」を包囲され、「韓王信」は降伏。
匈奴、冒頓軍は「韓王信」を味方にし、一気に南下「句注」山を越え、
「太原」の「晋陽」城に至ります。
一方、漢皇帝劉邦は自ら軍を率い、匈奴冒頓軍を迎え撃ちます。
時はB.C.200厳寒の冬、冷たい雪降る頃合い、「卒(=下級兵士)」の
20%~30%は凍傷で指を落とす者も。
冒頓軍は「詳(=佯・偽)」って敗走、劉邦軍を北へ誘い込む策へ。
劉邦軍は冒頓軍を追撃。冒頓は精兵を「匿(かく)」し、
「羸(ルイ)弱(・・疲れた)」兵を殿(しんがり)として退却。
ここに於いて劉邦全軍は悉(ことごと)く北進、更に32万追増兵。
劉邦は軍の先陣として「平城」に到着。
しかし、追尾が急だった為、隊列が伸び、後続部隊は遙か後方に。
冒頓はこれを期に精兵部隊40万騎を押し出し、
「白登」山上に布陣する劉邦を含む先陣軍を包囲。

「馬邑(朔州市)」・「太原(太原市)」・「白登(大同市雲州区)」の
位置関係は下記のグーグルアースでご確認下さい。
白登山
画像クリックで拡大します。
 続く。

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