冒頓単于は合理→冷静沈着 722
冒頓単于の愛しき奥様のお一人を頂いた東胡王は益々驕り高ぶり、
西進し匈奴との境(さかい)を越え侵入します。
そこは匈奴の「(放)棄地」で今は匈奴人が誰もいない地域。
そこを東胡は譲り受けたいと要求します。
冒頓は臣下に問い質します。
するとある臣下は
あそこは放棄地だからどちらでもよろしいかと答えたのです。
これを聞いた冒頓は大激怒、
「(土)地者国之本也 奈何予之」
(土地は国の大本である。なぜこれを与えようか)
と怒鳴り、どちらでもよいと答えた臣下達を斬殺、
即、馬に乗り、国中に命令、
「我に遅れる者は斬るぞ」と東湖に向けて出撃。
遂に東胡を襲撃。
東胡は冒頓を侮り過ぎ防備を怠っていた為、匈奴兵の急襲に
対処できず、東胡王は殺害され、東湖はここに滅亡。
匈奴兵は東胡民を捕らえ、家畜を召し上げたとの事。
匈奴兵の強襲から逃れた東胡人は一路東へ一目散。
「三国志 魏書 烏丸鮮卑東夷伝」 に依ると、
「烏丸<魏書>曰 烏丸者 東胡也 漢初 匈奴冒頓滅其国
余類保烏丸山 因以為号焉 中略
鮮卑<魏書>曰 鮮卑亦東胡之余也 別保鮮卑山 因号焉
其言語習俗与烏丸同」
と記述されています。
「烏丸(桓)山」麓まで逃亡した方々は「烏丸(桓)」(中国名称)、
「鮮卑山」麓へ逃走された方々は「鮮卑」(中国名称)と。
但し、この情報は陳寿の記載ではなく後に「三国志」に「注」を入れた
裴松之(はいしょうし)(372~451)の筆。
裴松之は東晋末~南朝宋時代の官僚。
彼が王沈(?~266)の執筆した「魏書」(三国志 魏書とは異なる)
を資料として書き加えた注釈です。
冒頓単于はとても合理的で冷徹(感情を排し、冷静沈着)な御仁では。
続く。
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