« 2020年4月 | トップページ | 2020年6月 »

2020年5月30日 (土)

冒頓vs.劉邦 平城・白登山の戦い 724

匈奴を大強国にした冒頓単于の極めつけは
B.C.200「漢」王朝劉邦軍との戦闘(平城・白登山の戦い)に勝利。

史記 巻百十一 匈奴列伝 第五十
「是時漢初定中国 徙韓王信於代 都馬邑 匈奴大攻囲馬邑
 韓王信降匈奴 匈奴得信 因引兵南踰句注 攻太原 至晋陽下
 高帝自将兵往撃之 会冬大寒雨雪 卒之堕指者十二三
 於是冒頓詳敗走 誘漢兵 漢兵逐撃冒頓 冒頓匿其精兵 見其羸弱
 於是漢悉兵 多歩兵 三十二万 北逐之 高帝先至平城
 歩兵未尽到 冒頓縦精兵四十万騎囲高帝於白登 七日
 漢兵中外不得相救餉 匈奴騎 其(白登山)
 西方尽白馬
 東方尽青駹馬
 北方尽烏驪馬
 南方尽騂馬
 高帝乃使使間厚遺閼氏 閼氏乃謂冒頓曰 両主不相困 今得漢地
 而単于終非能居之也 且漢王亦有神 単于察之
 冒頓与韓王信之将王黄 趙利期 而黄 利兵又不来 疑其与漢有謀
 亦取閼氏之言 乃解囲之一角 於是高帝令士皆持満伝矢外郷
 従解角直出 竟与大軍合 而冒頓遂引兵而去 漢亦引兵而罷
 使劉敬結和親之約
 是後韓王信為匈奴将 及趙利 王黄等数倍約 侵盗代 雲中
 居無幾何 陳豨反 又与韓信合謀撃代 漢使樊噲往撃之 復抜代
 鴈門 雲中郡県 不出塞 是時匈奴以漢将衆往降
 故冒頓常往来侵盗代地 於是漢患之
 高帝乃使劉敬奉宗室女公主為単于閼氏
 歳奉匈奴絮繒酒米食物各有数 約為昆弟以和親 冒頓乃少止
 後燕王盧綰反 率其党数千人降匈奴 往来苦上谷以東
 高祖崩 孝恵 呂太后時 漢初定 故匈奴以驕 冒頓乃為書遺高后
 妄言 高后欲撃之 諸将曰 以高帝賢武 然尚困於平城
 於是高后乃止 復与匈奴和親」
(上記訓読 国立国会図書館「和訳史記列伝 下巻」)
*韓王信・・(?~B.C.196)秦・漢の武将、後、匈奴に降伏、将軍に
*馬邑・・代の都(現在の山西省朔州市)
*句注・・句注山 馬邑より太原へ行く途中の山
*太原・・現在の山西省太原市 朔州市の南
*晋陽・・旧山西省太原郡晋陽県
*平城・・現在の山西省大同市平城区 朔州市の北
*白登・・平城にある白登山 現在の山西省大同市雲州区
*趙利・・韓王信の配下武将
*王黄・・韓王信の配下武将
*劉敬・・漢の官僚
*雲中・・現在の内モンゴル自治区フフホト市
*陳豨・・鉅鹿(現在の河北省邢台市)の郡守 鉅鹿の戦い
*樊噲・・漢の将軍 鴻門の会で劉邦を助けたお方
*鴈門・・現在の山西省北部
*昆弟・・昆(=兄)弟
*盧綰・・劉邦の親友 官僚・将軍、燕王 劉邦没後匈奴に投降
*上谷・・現在の北京市

子細は来週に。 続く。

| | コメント (0)

2020年5月23日 (土)

冒頓単于が匈奴を大強国に 723

史記 巻百十一 匈奴列伝 第五十
「既帰西撃走月氏 南并楼煩 白羊河南王 侵燕代
 悉復収秦所使蒙恬所奪匈奴地者 与漢関故河南塞
 至朝那膚施 遂侵燕代 中略
 是時漢兵与項羽相距 中国罷於兵革 以故冒頓得自彊 控弦之士
 三十余万 自淳維以至頭曼千有余歳 時大時小 別散分離 尚矣
 其世伝不可得而次云 然至冒頓而匈奴最彊大 尽服従北夷
 而南与中国為敵国 其世伝国官号乃可得而記云」
(上記訓読 国立国会図書館「和訳史記列伝 下巻」

東胡を征服した冒頓単于は
返す刀で西域の「月氏」部族制圧に乗り出します。
「月氏」は匈奴軍に抗しきれずより西、及び、南西へ敗走。
*月氏
中国、春秋時代から秦・漢代にかけて、
中央アジアで活躍した遊牧民族。
トルコ系、イラン系、またはチベット系ともいわれる。
紀元前三世紀頃モンゴル高原西部を支配したが、
紀元前二世紀ごろ匈奴(きょうど)に追われて、
主力はイリ地方からさらにアフガニスタン北部に移り、
大月氏国を建てた。(現在のカザフスタン・キルギス東部地域)
甘粛地方にとどまったものを小月氏という。
(日本国語大辞典 小学館)
月氏が遊牧していた土地を獲得した冒頓は次に南を目指します。
南のオルドス地域を遊牧地としていた
「楼煩(ろうはん)」・「白羊」部族(オルドス地域)は冒頓に服従。
更に、「燕」・「代」にも侵略。
「秦」王朝の将軍、「蒙恬(?~210)」に奪われた匈奴の土地を
悉く取り返し、「漢」王朝の「故河南塞」を「関」とし、
朝那(現在の寧夏回族自治区)・膚施県(現在の陝西省楡林市南部)
迄侵食、遂に「燕」・「代」を侵食する事に。
*燕・・河北省北部から東北地方南部地域
*代・・山西・河北省の辺境地域
この時期はちょうどB.C.201秦の始皇帝が没し、
項羽と劉邦(後の漢皇帝)との激しい戦闘中の狭間。
(B.C.206~B.C.202楚漢戦争) こちらの経緯は下記でご確認を。

「項羽 鉅鹿の戦いに勝利」
「劉邦登場 張良との邂逅」
「劉邦は武関 項羽は函谷関」
「項羽 孫子兵法 鉅鹿の戦いに活用」
「劉邦vs.項羽 鴻門の会」
「西楚の覇王 項羽」
「項羽 虞美人とお別れ」
「史記 項羽本紀原文 烏江」
「西楚覇王 項羽 絶命」
「烏江亭の思慮不足で項羽自害」
「漢帝国成立 劉邦 武帝 司馬遷」

匈奴の冒頓単于は各遊牧民族を束ね、大強国を造り上げたのです。
 続く。

| | コメント (0)

2020年5月16日 (土)

冒頓単于は合理→冷静沈着 722

冒頓単于の愛しき奥様のお一人を頂いた東胡王は益々驕り高ぶり、
西進し匈奴との境(さかい)を越え侵入します。
そこは匈奴の「(放)棄地」で今は匈奴人が誰もいない地域。
そこを東胡は譲り受けたいと要求します。
冒頓は臣下に問い質します。
するとある臣下は
あそこは放棄地だからどちらでもよろしいかと答えたのです。
これを聞いた冒頓は大激怒、
「(土)地者国之本也 奈何予之」
(土地は国の大本である。なぜこれを与えようか)
と怒鳴り、どちらでもよいと答えた臣下達を斬殺、
即、馬に乗り、国中に命令、
「我に遅れる者は斬るぞ」と東湖に向けて出撃。
遂に東胡を襲撃。
東胡は冒頓を侮り過ぎ防備を怠っていた為、匈奴兵の急襲に
対処できず、東胡王は殺害され、東湖はここに滅亡。
匈奴兵は東胡民を捕らえ、家畜を召し上げたとの事。
匈奴兵の強襲から逃れた東胡人は一路東へ一目散。

「三国志 魏書 烏丸鮮卑東夷伝」 に依ると、
「烏丸<魏書>曰 烏丸者 東胡也 漢初 匈奴冒頓滅其国
 余類保烏丸山 因以為号焉 中略
 鮮卑<魏書>曰 鮮卑亦東胡之余也 別保鮮卑山 因号焉
 其言語習俗与烏丸同」
と記述されています。

「烏丸(桓)山」麓まで逃亡した方々は「烏丸(桓)」(中国名称)、
「鮮卑山」麓へ逃走された方々は「鮮卑」(中国名称)と。
但し、この情報は陳寿の記載ではなく後に「三国志」に「注」を入れた
裴松之(はいしょうし)(372~451)の筆。
裴松之は東晋末~南朝宋時代の官僚。
彼が王沈(?~266)の執筆した「魏書」(三国志 魏書とは異なる)
を資料として書き加えた注釈です。
冒頓単于はとても合理的で冷徹(感情を排し、冷静沈着)な御仁では。
 続く。

| | コメント (0)

2020年5月 9日 (土)

匈奴単于の冒頓に東胡が干渉 721

匈奴人で一番著名なお方は「冒頓(ぼくとつ)(B.C.?~B.C.174)」さん。
かの時代、中央アジア・モンゴル大草原は
「匈奴」の西に「月氏」、東に「東胡」(両方共に中国名)と
呼ばれていた遊牧騎馬民族が存在していました。
*月氏
中国、春秋時代から秦・漢代にかけて、中央アジアで活躍した
遊牧民族。トルコ系、イラン系、またはチベット系ともいわれる。
*東胡
(「胡」は中国で辺境の異民族に対する蔑称) 東方の異民族。
特に、春秋時代から東蒙古に現われた狩猟遊牧民をいう。
(日本国語大辞典 小学館)
彼は故有って父を殺害し、部族長(単于=王)になります。
冒頓が単于(ぜんう)になった際、東の「強盛」な部族「東胡」は彼に
干渉(ちょっかいを出した)したのです。
その時の状況が「史記 巻百十一 匈奴列伝 第五十」に。

「冒頓既立 是時東胡強盛 聞冒頓殺父自立 乃使使謂冒頓
 欲得頭曼時有千里馬 冒頓問群臣
 群臣皆曰
 千里馬 匈奴宝馬也 勿与
 冒頓曰
 奈何与人隣国而愛一馬乎
 遂与之千里馬
 居頃之 東胡以為冒頓畏之 乃使使謂冒頓
 欲得単于一閼氏 冒頓復問左右
 左右皆怒曰
 東胡無道 乃求閼氏 請撃之
 冒頓曰
 奈何与人隣国愛一女子乎
 遂取所愛閼氏予(=与)東胡
 東胡王愈益驕 西侵 与匈奴間 中有棄地 莫居 千余里
 各居其辺為甌脱
 東胡使使謂冒頓曰
 匈奴所与我界甌脱外棄地 匈奴非能至也 吾欲有之
 冒頓問群臣 群臣或曰
 此棄地 予之亦可 勿予亦可
 於是冒頓大怒曰
 地者国之本也 奈何予之
 諸言予之者 皆斬之 冒頓上馬 令国中有後者斬 遂東襲撃東胡
 東胡初軽冒頓 不為備 及冒頓以兵至撃 大破滅東胡王
 而虜其民人及畜産」

読み下しは国立国会図書館「和訳史記列伝 下巻」でご確認を。
東胡は若き冒頓単于に先ず、駿馬(「千里馬」)を要求、
彼の取り巻きは我々遊牧民に取って駿馬は「宝」故、送る勿れと進言。
それに対し、冒頓はあっさり隣国のよしみと東胡へ贈答。
これに東胡は冒頓が自分たちを畏れていると思い、更なる要求を。
今度は冒頓の奥様(「閼氏」=単于の后妃の号)のお一人を所望。
これにはさすが取り巻きは激怒、戦も辞さじと。
しかし、冒頓はこれまた情け容赦もなく躊躇せずに愛妃を見捨てます。
(奥様が沢山いらっしゃる殿方でもこれはちょいと許せません。)
「ムッ」としましたので次なる展開は来週に。 続く。

| | コメント (0)

2020年5月 2日 (土)

匈奴の習俗 古事記神話に 720

匈奴の習俗(結婚形態)
1 父の妻(連れ合い)を父の死後、息子が母を妻にする。
2 自分の兄弟の妻を兄弟の死後、残された兄弟が妻にする。

この習俗の内、
1のケースが今となっては昔になりますが「古事記」にありました。

「当芸志美美命が前后を娶る」
こちらをご確認下さい。
神武帝(神倭伊波礼彦)の先妻の息子、当芸志美美命が
神武帝の後妻、伊須気余理姫を神武帝崩御後、妻としました。

「故天皇崩後 其庶兄当芸志美美命
 将娶其嫡后伊須気余理比賣之時 将殺其三弟而 謀之間
 其御祖伊須気余理比賣患苦而」
(詳しくは「綏靖帝の誕生秘話」をご覧下さい。)

上記の「古事記」の記述(「将娶其嫡后伊須気余理姫」)の簡素さから
「恋愛感情」の有無は確認不可能です。
但し、全く揉め事も記載されてない点からこの婚姻は「不自然さ」が
無い事になると考えます。
この古事記物語は結婚事実にさらりと触れるのみで
神武帝の後継者問題を展開する事が主眼だったのです。
但し、
「古事記神話時代」の物語に「匈奴の習俗」を取り入れていた事実。
これは決して見逃せません。
強引に、
匈奴文化が海を越え倭文化に浸透していたなんて結論づけません。
しかしながら、「密かな関係性」があったのやも。 続く。

| | コメント (0)

« 2020年4月 | トップページ | 2020年6月 »