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2020年4月25日 (土)

とても合理的発想な匈奴人 719

司馬遷の史記に依ると
モンゴル大草原遊牧騎馬民族、匈奴は非常に合理的発想の持ち主。

「利則進 不利則退 不羞遁走」
(利があれば進み、利が無ければ退き、退き逃げる事を羞恥しない)
*「利」・・魂(心、精神)・物(物質、事物)の効用

「壮者食肥美 老者食其余 貴壮健 賤老弱」
(働き盛りの人は美味しいものをお腹一杯食し、
 リタイヤーした方々は彼・彼女らの残り物を頂く。
 体が丈夫で元気者を貴び、
 老いぼれ爺さん・婆さん・子供はそれなりに。)
これは、決して、老人・子供虐待ではないのです。
自然と共に生きる民が自然界で生き抜く摂理。
現役を引退した爺さん・婆さん達は
喜んで若壮年達に美味しいものを先に食してもらったと考えます。
働かざる者食うべからず、怠け者は当然、食してはいけません。

次は合理的か否かは賛否が分かれるところです。

「父死 妻其後母 兄弟死 皆取其妻妻之」
(父が死すれば、その後母を妻とし、
 兄弟が死すれば、皆その妻を取って「之(これ)」を妻とする)
ギリシャ神話のオイディプスとは違い父を殺害する訳ではありません。
又、「『いき』の構造」の著者、九鬼周造が兄死後兄嫁と結婚します。
しかし、この場合は匈奴の習俗(結婚形態)とは全く異なります。
匈奴人の皆さんは恋愛感情を抜きにした結婚制度だったのです。
この制度により族(社会)集団の「結束」を図ったのです。
「個々人」よりも「血の繋がり」を大切にされた民族だったのでは。
 続く。

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2020年4月18日 (土)

鉄製馬銜(ハミ) アイアンロード 718

漢により匈奴と命名されたモンゴル大草原遊牧「騎馬」民族。
先週紹介した史記匈奴列伝
「毋文書 以言語為約束」(文書無く、言語を以て約束を為す)
から、彼ら彼女らは倭国同様「文字」をお持ちでなかった模様。
従って、
いつの時点で馬の制御を可能にした鉄製「馬銜(はみ)」を
「スキタイ人(イラン系騎馬遊牧民)」から教わったかは不明ですが
馬を自由にコントロールし大草原を「水と草」を求め、
羊らと共に移動していた事は否めません。
*馬銜(はみ)・・馬の口奥に装具するもの
*スキタイ人
B.C.7世紀~B.C.3世紀頃、中央ユーラシア大陸地域で生活されて
いた方々と云われています。
又、この鉄製馬銜を彼らに教えたのは「ヒッタイト人」と。
*ヒッタイト
紀元前2000年頃小アジアでインド‐ヨーロッパ語を用いた一民族。
紀元前18世紀中頃アナトリアに古王国を建て、紀元前17世紀には
小アジア・メソポタミア・シリアの各一部を征服、
次いで新王国は紀元前14世紀中頃最盛期に達し、
エジプト・アッシリアと並ぶ大帝国となった。
紀元前1200年頃海上民族の侵入で滅亡。
鉄器と馬の使用で軍事的にすぐれ、楔形文字も解読され、
象形文字も残存する。(日本国語大辞典 小学館)
*小アジア
アジアの西端に突き出て地中海、黒海、エーゲ海に囲まれる半島。
ヨーロッパのバルカン半島と対する。
トルコ共和国の大部分を占めてアジア‐トルコとも呼ばれる。
アジア、ヨーロッパ、アフリカの三大陸の接点にあたり、
古来さまざまの文明が栄えた。(日本国語大辞典 小学館)
この「小アジア」 → 「中央ユーラシア大陸地域」 →
「モンゴル大草原地域」と続く道を「アイアンロード(鉄の道)」(NHK)
と称されています。 続く。

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2020年4月11日 (土)

匈奴 モンゴル大草原遊牧民族 717

(西)晋王朝滅亡(316年11月)は
司馬懿一族同士の権力闘争による弱体化もさることながら、
最終的に止めを刺したのは「匈奴」軍でした。
「匈奴」につきましては「司馬遷の「太史公書=史記」執筆成立」
ほんの少し触れました。
匈奴はモンゴル大草原を「羊」等と共に生活した遊牧民族と。
「史記」に匈奴の記述があります。

巻百十一 匈奴列伝 第五十
「匈奴 其先祖夏后氏之苗裔也 曰淳維 唐虞以上有山戎 獫狁 葷粥
 居于北蛮 随畜牧而転移 其畜之所多則馬牛羊 其奇畜則橐駞
 驢驘駃騠騊駼騨騱 逐水草遷徙 毋城郭常処耕田之業
 然亦各有分地 毋文書 以言語為約束 児能騎羊 引弓射鳥鼠
 少長則射狐兔 用爲食 士力能毋弓 尽爲甲騎 其俗 寬則隨畜
 因射獵禽獸為生業 急則人習戦攻以侵伐 其天性也 其長兵則弓矢
 短兵則刀鋋 利則進 不利則退 不羞遁走 苟利所在 不知礼義
 自君王以下 咸食畜肉 衣其皮革 被旃裘 壮者食肥美
 老者食其余 貴壮健 賤老弱 父死 妻其後母 兄弟死
 皆取其妻妻之 其俗有名不諱 而無姓字」

以上は
国立国会図書館 電子図書館蔵書 「和訳史記列伝 下巻」にて
訓読されていますのでご確認下さい。

史記によると匈奴は「夏后」の末裔とされています。
しかしながら、司馬遷が匈奴を悪く思っていなかった為
無理に末裔にしたのではないかと思われますが・・・・・?
夏后につきましては
「華僑・華商ネットの魁け夏(華)人」
「龍と王権威(力)との融合」で記しました。
夏王朝(夏后)は推定年代B.C.2000頃~B.C.1600頃とされています。
又、匈奴と云う呼称
「旬奴といった称謂が戦国期にはなお存在しなかった」
*称謂・・呼び名、名称
*戦国期・・B.C.403~B.C.221 始まりは諸説有り
(京都大學文學部研究紀要 第45号
 「史記匈奴列伝疏証 : 上古から冒頓単于まで」P79 吉本道雅著)
と吉本道雅氏は研究論述されています。
きっと以て、
前漢(B.C.206~A.D.8)の
司馬遷(B.C.145or B.C.135?~B.C.87orB.C.86?)が生きていた時代以前、
漢帝国より北方に住まう大草原遊牧民族に対する蔑称だったのでは。
「漢帝国成立 劉邦 武帝 司馬遷」 続く。

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2020年4月 4日 (土)

300年4月張華絶命 716

「不慧」な司馬衷(晋朝恵帝)・「荒淫放恣」の賈南風(賈后)さんを
懸命に張華はサポートしますが如何せんトップがトップ故、
とうとう賈后一族の倒れる時が訪れます。

「(300年)夏四月辛卯 日有蝕之 癸巳 梁王肜
 趙王(司馬)倫矯詔廃賈后為庶人
 司空張華 尚書僕射裴頠 皆遇害 侍中賈謐及党与数十人皆伏誅」
(晋書 帝紀第四 恵帝)
「(司馬)倫乃矯詔遣尚書劉弘等持節齎金屑酒賜后死 后在位十一年」
(晋書 巻三十一 列伝第一 后妃上)
「張華 裴頠各以見憚取誅于時」
(晋書 巻三十六 列伝第六 衛瓘 張華)

300年4月「司馬倫(?~301)(司馬懿の息子)」により
賈后さんは「庶人」にされ、「金屑酒(金箔入り毒酒)」を飲まされ他界。
朝政の重臣、
張華・裴頠は司馬倫を敬遠、距離を置くスタンスをとった為
命を絶たれます。
しかし、張華(238~300)は62年間の生を全うされたのです。
張華が抹殺される前に「三国志」が「正史扱い」されていて幸いでした。
従って、
今わたくし達が陳寿の「三国志」を目にする事ができるのは
陳寿の執筆は当然の事として
「劉放」→「賈后」→「裴頠(はいぎ)」⇒「張華」達のお陰なのです。
290年4月武帝(司馬炎)崩御後、
291年3月賈南風(賈后)さんの楊一族粛清クーデター
300年4月司馬倫による賈一族、側近粛清クーデター
これ以後も「司馬懿一族」同士の権力闘争が続き、
316年11月匈奴、劉曜(?~329)により「(西)晋」滅亡
*劉曜・・劉淵(?~310)の養子 子細は後ほど
この間の乱世は通称、「八王の乱」と云われています。 続く。

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