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2020年3月28日 (土)

賈后 庶民出の張華を重用 715

賈南風(賈后)さんに覚えめでたく、昇進を果たした張華。
しかしながら、
張華が晋朝の要職に就けたのは才能だけではなかったのです。
彼が庶民出身、
なおかつ賈后さん一族権力者達には風刺・諫言するものの
権力奪取策謀等は露程にも思ってなかったから、
賈后の縁戚で賢明な「裴頠(267~300)」も張華を評価していたとか。
これらの事から賈后も彼を重用したと。
以上の内容は下記に。

「賈謐與后共謀 以華庶族 儒雅有籌略 進無逼上之嫌 退為衆望所依
 欲倚以朝綱 訪以政事 疑而未決 以問裴頠 頠素重華 深賛其事
 華遂尽忠匡輔 弥縫補闕 雖当暗主虐後之朝 而海内晏然
 華之功也 華惧后族之盛 作女史箴以為諷 賈后雖凶妒
 而知敬重華」
(晋書 巻三十六 列伝第六 衛瓘 張華)

とは云え、賈后さん一族も前政権の楊一族と同じ穴の狢(むじな)。
権力保持者の大概は時の経過に伴い腐敗する事、必定。
特に賈后さん(257~300)は「閨事(ねやごと)」が大好きだったとか。
イケメン官吏をたらし込みベッドイン、
更に、
街中の美少年までも「簏箱(竹箱)」に入れ宮中に潜り込ませる始末。
一度の人生を大いにしっかりと楽しまれた素敵な女性?
但し、「正史」にわざわざ記述するものでもないと思いますが。
ひょっとしたら、殿方(男性)目線の嫉妬なのでは?
それ故、政務を司った張華らは大変ご苦労なされた筈。  続く。

余計なお世話とも思われますが美少年宮中潜入箇所を

「(賈)后遂荒淫放恣 與太医令程拠等乱彰内外 洛南有盗尉部小吏
 端麗美容止 既給塚役 忽有非常衣服 衆咸疑其窃盗 尉嫌而弁之
 賈后疏親欲求盗物 往聴対辞 小吏云 先行逢一老嫗 説家有疾病
 師卜云宜得城南少年厭之 欲暫相煩 必有重報 於是随去 上車下帷
 内簏箱中 行可十余里 過六七門限 開簏箱 忽見楼闕好屋
   問此是何処 云是天上 即以香湯見浴 好衣美食将入 見一婦人
 年可三十五六 短形青黒色 眉後有疵 見留数夕 共寝歓宴
 臨出贈此衆物 聴者聞其形状 知是賈后 慚笑而去 尉亦解意」
(晋書 巻三十一 列伝第一 后妃上)

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2020年3月21日 (土)

張華 劉放により中央進出 714

先週紹介した張華の生い立ち。

「郷人劉放亦奇其才 以女妻焉」
(晋書 巻三十六 列伝第六 衛瓘 張華)

張華(232~300)と同じ幽州(今の北京)出身の「劉放(?~250)」は
彼を見込みご自分のお嬢さんを彼のお嫁さんにしました。
この「劉放」は多大に「晋朝」成立に関わっています。
238年「司馬懿」が公孫淵を制圧、帯方郡・楽浪郡を奪回。
「明帝、燕王 公孫淵征討決意」をご確認下さい。

この記を逃さず、いち早く、「卑弥呼」さんはお祝い駆け付け。
239年正月「明帝(曹叡)」崩御以前、
次の帝、曹芳(8歳)(232~274)の後見人選定にあたり、
「劉放」(当時、侍中・光禄大夫)は「司馬懿」と曹爽を推挙。
「司馬懿(179~251)」は魏朝の押しも押されぬ最重要な存在に。
249年「司馬懿」よるクーデター。
やがて、張華は「劉放」のコネで「司馬懿」の次男、司馬昭(211~265)
の所でお仕事をする事になり中央進出を果たすのです。
この間の動きは
「張華と陳寿(壽)の歩み」をご確認下さい。
又、「劉放」はあの「曹操」に才を認めたれた方なのです。
遡ると、前に進めませんので興味のある方は
「三国志 魏書十四 劉放伝」に記載されています。
張華は賈后の政敵排除に至る功績により栄達。

「(張)華以首謀有功 拝右光禄大夫 開府儀同三司 侍中 中書監
 金章紫綬 固辞開府」
(晋書 巻三十六 列伝第六 衛瓘 張華)
*光禄大夫・・相談役
*開府儀同三司・・開府(役所設置)を許された方
*侍中・・帝お側仕え
*中書監・・宮廷秘書官長

官職四っつ拝命するも一つを辞退、張華って、とても慎み深いお方。
 続く。

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2020年3月14日 (土)

賈后政権奪取に貢献 張華 713

290年4月司馬衷は皇帝位、奥様の賈南風さんは皇后に。

「武帝崩 是日 皇太子即皇帝位 大赦 改元為永熙
尊皇后楊氏曰皇太后 立妃賈氏爲皇后」
(晋書 帝紀第四 恵帝)

武帝(司馬炎)の二番目の皇后、楊芷(258~292)は皇太后に。
最初の皇后は楊艶(238~274)さんで司馬衷の生母、楊芷は、はとこ。

三国時代統一は先々週お話ししました通り、
司馬炎は女性寵愛の日々で、
政治は楊芷の父、楊駿と楊一族が牛耳っていました。

「帝常疑太子不慧」(晋書 巻三十一 列伝第一 后妃上)

武帝は常々、
司馬衷(晋朝恵帝)を「不慧(智恵無し)」と疑っていましたが
これが事実だった模様です。
従って、賈南風(賈后)さんは頑張っちゃいます。
皇后になる前から彼女にとって義母、楊芷一族の専横に不満を持ち、
時あらば権力奪回を企図していました。
晴れて彼女は皇后になり、実行に移します。
291年3月楊一族を粛清、政権奪取(クーデター)に成功。
同年6月政敵を悉く追放へ。
この賈后の政敵排除に貢献したのが
幼くして孤児になり貧乏生活を余儀なくされていたものの
彼の才能・礼節・義心・器量・見識を認めた方々のお陰で
やがて中央官僚となった冷静・沈着・聡明な張華だったのです。

「張華 字茂先 范陽方城人也 父平 魏漁陽郡守 華少孤貧 自牧羊
 同郡盧欽見而器之 郷人劉放亦奇其才 以女妻焉 華学業優博
 辞藻温麗 朗贍多通 図緯方伎之書莫不詳覧 少自修謹
 造次必以礼度 勇於赴義 篤于周急 器識弘昿 時人罕能測之
 初未知名」
(晋書 巻三十六 列伝第六 衛瓘 張華)  

詳しくは、国立国会図書館 電子図書館蔵書
「六朝文人伝「張華」 ― 『晋書』張華伝―」(佐藤利行氏)
をご確認下さい。 続く。

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2020年3月 7日 (土)

賈皇后→張華→三国志 712

以前、「三国志(陳寿著述)」が正史になる立役者、
「張華」について記しました。
「張華と陳寿(壽)の歩み」
「陳寿 呉滅亡で三国志執筆」
「三国志 正史扱い認定」   をご覧下さい。

「(282年)三年春正月 以尚書張華都督幽州諸軍事」
(晋書 帝紀第三 武帝)
「持節 都督幽州諸軍事 領烏桓(丸)校尉 安北将軍」
(晋書 巻三十六 列伝第六 衛瓘 張華)

282年張華は荀勖に疎まれ中央から外され、
幽州(現在の北京)を拠点とし東北地区を管轄、
287年迄の間、抜群の成績を治め、
288年漸く張華は洛陽に帰京し閑職である「太常」に就任。

「頃之 徴華為太常 以太廟屋棟折 免官 遂終帝之世 以列侯朝見」
(晋書 巻三十六 列伝第六 衛瓘 張華)

太廟(帝室の祖廟)新築工事を指揮、完成後屋根の梁が折れる事故で
免職され、以後、司馬炎の死去まで「列侯」身分で「朝見」していた。
290年4月司馬炎没後、

「惠帝即位,以(張)華為太子少伝」
(晋書 巻三十六 列伝第六 衛瓘 張華)

張華は太子少伝(皇太子教育職)に。

「(296年)六年春正月 大赦 司空 下邳王晃薨 以中書監張華為司空」
(晋書 帝紀第四 恵帝)

296年1月「司空(築城・水利等の建築事業を掌る長)」迄にも出世。
ここ迄、以前、記しました。
この「張華」官僚位栄進には
司馬衷(晋朝恵帝)の皇后=「賈南風(257~300)」さんの登場が
欠かせないヒロインなのです。
張華は賈皇后の重用により、政務執行が可能になり、
ひいては、「三国志(陳寿著述)」が正史になり得たのです。 続く。

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