邪馬壹国 邪馬臺国 表音違い707
先週の「張政 邪馬壹国に長期間滞在」には
「復立卑彌呼宗女壹与~因詣臺 献上男女生口三十人」
と表記されています。
後(南宋時代)の写本時、
艱難辛苦で「科挙」に合格した一握りの高級官僚達が
誤記するとはとても思えません。
壹与(イヨ)は固有名詞、詣臺(タイ)(臺=台に詣で)は普通名詞。
「魏・晋の都、洛陽地域音(漢音)」に明確な差異があったのです。
従って、
「邪馬壹国(ヤマヰコク)」・「邪馬臺国(ヤマタイコク)」なのです。
「イ」(陳寿239年)が「タイ」(范曄432年以降頃)に
文字変更になったのは
范曄さんが南朝宋(420~479)都、
建康=南京地域音(呉音)に置き換えたと考えます。
故に、陳寿さんも范曄さんも決して誤謬されていません。
又、この時代に倭国遣使が南朝宋を訪れています。
(時系列では次の正史となる「宋書」情報に依ると)
永初二年 (→421年)
元嘉二年 (→425年)
元嘉十五年(→438年)
元嘉二十年(→443年) 以後も続く。
范曄(398~445)さんは少なくても上二回(421・425年)、
倭国遣使と接近遭遇しているのではと思えます。
否、接近どころか直接通訳を介して会話を交えた可能性もあります。
ひょっとしたら倭国遣使の直接発音を直に聞いたのでは?
范曄さんの聞き及んだ倭国に対する「情報量」が多く、
陳寿さんから約200年後、「壹」→「臺」に変更したと考えます。 続く。
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