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2020年2月29日 (土)

司馬炎 妓妾五千人入宮 711

280年中国大陸を統一した司馬炎(晋朝武帝)(236~290)。
後漢王朝滅亡(220年)後、三国時代を統一、
曹操→曹丕・司馬懿→司馬師・司馬昭→司馬炎と繋ぎ、
ここに、漸く、成し遂げます。
司馬炎は大願成就で有頂天?
彼は人一倍、否、人百倍、女性をこよなく愛したお方みたい。
三国時代統一以前、
273年(司馬炎38歳)容姿端麗な女性を数多選出、後宮に迎入れます。
「詔聘公卿以下子女以備六宮」(帝紀第三 武帝)
更に統一後、
281年(司馬炎46歳)「詔選孫皓妓妾五千人入宮」(帝紀第三 武帝)
孫皓(243~284)は呉の第4代帝(孫権(182~252)の孫)。
司馬炎は孫皓の後宮女性5,000人選び、
ご自分の後宮に招き入れてしまったのです。
5,000人は基本的に盛っている数字と思われますが、
多数の南方美人も寵愛できる機会を得たのです。
但し、北方美人に飽きたわけではないと思いますが・・・・・。
とっても楽しい「浮き世」を過ごされたと思われる司馬炎(晋朝武帝)。
「魏」から政権奪取し、25年間に渡った彼の治世は
290年に終焉を迎えます。享年55歳。
この年、倭国の壹与さんはご存命なら56歳になっています。
果たして、壹与さんはお元気だったのでしょうか?
先週の「朝献(289年)」・「朝貢(290年)」の記事から類推して
生存されている感じも・・・・・。
司馬炎の死後、息子の司馬衷(晋朝恵帝)(259~307)が帝位に。
晋書帝紀第四 恵帝
「(291年) 是歲東夷十七国 南夷二十四部並詣校尉内付」
を最後に、「東夷」の「帰化」・「内付」・「朝献」・「朝貢」の記述が
途切れてしまうのです。
先週の「晋書 東夷国 帰化・内付」から
「東夷」諸国が「取り止め」たとは基本的に思えません。
この年の3月に政権奪取(クーデター)劇が起きました。 続く。

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2020年2月22日 (土)

晋書 東夷国 帰化・内付~朝貢 710

晋書 巻九十七 列伝第六十七 四夷伝
「東夷 夫余国 馬韓 辰韓 肅慎氏 倭人 裨離等十国」
「夫余国 在玄菟北千余里 南接鮮卑 北有弱水 地方二千里 略~」
「韓種有三 一曰馬韓 二曰辰韓 三曰弁韓 略~」
「肅慎氏一名挹婁 在不咸山北 去夫餘可六十日行 略~」
「倭人在帯方東南大海中 依山島為国 略~」 この最後に
「宣帝(司馬懿)之平公孫氏也 其女王遣使至帯方朝見 其後貢聘不絶
 及文帝(司馬昭)作相 又数至 泰始初(266年) 遣使重訳入貢」
「裨離国在肅慎西北 馬行可二百日 略~」

東夷に対する記述は以上で「等」は全く記されていません。
紹介されている東夷は
夫余国・馬韓・辰韓・弁韓・肅慎氏(挹婁)・倭人・裨離国です。
「倭人」の文末にて、倭国の魏・晋王朝訪問について
238年の卑弥呼さんの遣使、それ以後訪問が絶えず、
司馬昭の際は数回、
266年司馬炎(晋朝武帝)への訪問と記載されています。
しかし、これ以降、「倭」情報は途絶えてしまいます。
但し、帝紀第三 武帝・帝紀第四 恵帝に「東夷」として
咸寧02年(276年)02月 東夷08国帰化
咸寧02年(276年)07月 東夷17国内付
咸寧03年(277年)12月 東夷03国~内付
咸寧04年(278年)03月 東夷06国来献 是年東夷09国内付
太康01年(280年)06月 東夷10国帰化
太康01年(280年)07月 東夷20国朝献
太康02年(281年)03月 東夷05国朝献
太康02年(281年)06月 東夷05国内付
太康03年(282年)09月 東夷29国帰化
太康07年(286年)08月 東夷11国内付 是年馬韓等11国来献
太康08年(287年)08月 東夷02国内付
太康09年(288年)09月 東夷07国内付
太康10年(289年)05月 東夷11国内付 是年東夷絶遠30余国来献
太熙01年(290年)02月 東夷07国朝貢
太熙01年(290年)04月 司馬炎(武帝)死去
永平01年(291年)是年東夷17国内付
「帰化」は王化(=君主の政)に帰服する事で、
「内付」は他国に従属(=強き者に付き従う)する事です。
上記の「帰化」・「内付」は帰服・従属ですので「倭」が含まれないと
思われますが?
「来献」は微妙ですが、「朝献」・「朝貢」は含まれている可能性も?
280年3月、司馬炎(晋朝武帝)は「呉国」を制圧、
これにて「魏・蜀・呉」の三国を統一した事に。
このお祝い?かたがた、280 or 281年に倭国は晋朝訪問の可能性が。
 続く。

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2020年2月15日 (土)

265年壹与31歳・司馬炎30歳 709

三国志魏書 魏三十(倭人伝)に依ると、
247年に倭国女王、「卑弥呼」が天に召され、
彼女の血族だった「壹与」が13歳(数え)で倭国女王となります。
と云う事は、「壹与」は235年生まれになります。
247年以降の倭国の状況を知り得るのは中国正史「晋書」に依る事に
なるのですが、この書の成立年は648年ですので約400年の隔たりが。
何と、時代は唐王朝なのです。
以前記しました「晋書の陳寿(壽)情報」をご確認下さい。
(西)晋朝(265~316年)~~~唐王朝(618~907年)に至る迄の
中国大陸動向は凄まじく群雄割拠する時代。
大まかに、黄河と長江の中間を流れる「淮河(わいが)」の
北地域は
「北狄」と称された狩猟民・遊牧民部族と置き去りにされた方々
南地域は
「北狄」に洛陽地域を追われた方と以前よりこの地域におられた方々と
「西戎」と称された遊牧民部族の構成になります。
現在で云う中国は二分割されていたのです。
その状況は後に整理して紹介します。
そして、「晋書」に依ると
(西)晋朝スタートした翌年、266年に倭国は(西)晋朝を訪れています。

晋書 帝紀第三 武帝=「司馬炎」(236~290)
「(266年)十一月己卯 倭人来献方物」

こちらの資料は「国立国会図書館 電子図書館蔵書」になっていない為
紹介できません。悪しからず。
ここでの表記は倭国ではなく「倭人」となっています。
魏王朝から(西)晋朝へ 司馬懿→司馬師→司馬昭→司馬炎
こちらの時系列は「張華と陳寿(壽)の歩み」でご確認を。
(西)晋朝成立お祝いの倭人訪問団は
特段情報が記載されていませんが基本的には「壹与」の使節でしょう。
この年、「壹与」は31歳、「司馬炎」は30歳でほぼ同(おな)い年。 
 続く。

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2020年2月 8日 (土)

ところで「倭」の表音は? 708

先週、「邪馬壹国(ヤマイコク)」・「邪馬臺国(ヤマタイコク)」で
洛陽地域音(漢音)・南京地域音(呉音)の表音違いとしました。
ところで、それでは、
「倭」についてはどのような表音(発音)だったのでしょうか?
「倭」の表記は

(前)漢書地理志 燕地
「楽浪海中有人 分為百余国 以歳時来献見云」
(執筆地→後漢朝 洛陽)

三国志魏書 魏三十 倭人伝
人在帯方東南大海之中 依山島為国邑 旧百余国 漢時有朝見者
 今使訳所通三十国 従郡至
(執筆地→晋朝 洛陽)

後漢書 東夷列伝
在韓東南大海中 依山島為居 凡百余国 自武帝滅朝鮮
 使駅(訳)通於漢者三十許国 国皆称王 世世伝統」
(執筆地→南朝宋 建康=南京)

執筆地が洛陽と建康=南京と違うものの、
両方共に表意文字は「倭」になっています。
然らば、各々「倭」の発音は一体どんな「音」だったのでしょう?
残念ですが、全く分かりません。
但し、
時代は違えど、班固・陳寿・范曄さんが
現在の日本列島住まう人・地域を
「倭」と呼称・表記していたのは事実なのです。
因みに、漢和辞典での「倭」は
漢音「ヰ」 意味→従う様 うねって遠い様 みにくい
呉音「ワ」 意味→やまと
(「新漢和辞典」 諸橋轍次ら・大修館書店)と説明されています。
しかしながら、
ここでの漢音は隋(581~618)・唐朝(618~907)時代の「音」です。
一方、呉音は南朝宋(420~479)の「音」とされています。
従って、後漢書の「倭」は「ワ wo」と発音されていたのかも。 
又、この音の意味→やまとは完全後講釈です。 続く。

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2020年2月 1日 (土)

邪馬壹国 邪馬臺国 表音違い707

先週の「張政 邪馬壹国に長期間滞在」には
「復立卑彌呼宗女壹与~因詣臺 献上男女生口三十人」
と表記されています。
後(南宋時代)の写本時、
艱難辛苦で「科挙」に合格した一握りの高級官僚達が
誤記するとはとても思えません。
壹与(イヨ)は固有名詞、詣臺(タイ)(臺=台に詣で)は普通名詞。
「魏・晋の都、洛陽地域音(漢音)」に明確な差異があったのです。
従って、
「邪馬壹国(ヤマコク)」・「邪馬臺国(ヤマタイコク)」なのです。
「イ」(陳寿239年)が「タイ」(范曄432年以降頃)に
文字変更になったのは
范曄さんが南朝宋(420~479)都、
建康=南京地域音(呉音)に置き換えたと考えます。
故に、陳寿さんも范曄さんも決して誤謬されていません。
又、この時代に倭国遣使が南朝宋を訪れています。
(時系列では次の正史となる「宋書」情報に依ると)
永初二年  (→421年)
元嘉二年  (→425年)
元嘉十五年(→438年)
元嘉二十年(→443年) 以後も続く。
范曄(398~445)さんは少なくても上二回(421・425年)、
倭国遣使と接近遭遇しているのではと思えます。
否、接近どころか直接通訳を介して会話を交えた可能性もあります。
ひょっとしたら倭国遣使の直接発音を直に聞いたのでは?
范曄さんの聞き及んだ倭国に対する「情報量」が多く、
陳寿さんから約200年後、「壹」→「臺」に変更したと考えます。 続く。

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