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2019年8月31日 (土)

張政 邪馬壹国に長期間滞在 690

夏休み終了、本日より再スタートします。

倭女王卑弥呼情報を陳寿にもたらした、帯方郡派遣役人の
張政さんですが「邪馬壹国」にかなり留まっていたと考えられます。
倭国は狗奴国との戦いに勝利を収め、卑彌呼さんの死去に伴い、
お墓を造作、王不在の為、女王に変わり男王が立つ。
この後の展開が下記のように。

「更立男王 国中不服 更相誅殺 当時殺千余人
 復立卑彌呼宗女壹与年十三為王 国中遂定 政等以檄告喻壹与
 壹与遣倭大夫率善中郎将掖邪狗等二十人送政等還 因詣臺」

卑彌呼さんの後を継いだ男王に対し、倭国各リーダー達の中で不満
を呈す方がおられたようで諍いが発生、亡くなられた方大勢。
不満分子を現出した「男王」は一体どちら様?
魏志倭人伝の流れから類推するに「卑弥呼の弟」とも考えられます。
そこで卑弥呼の弟は年端もいかない(卑弥呼)一族で13歳の「壹与」を
王をする事に。これにて倭国は安寧を迎えたと。
どうも、倭国は「女王」を据えないと平和を保てないお国柄だった?
「原始女性は太陽であった思想」を尊び、脈々と文化継承をした方々。
「母系社会体制」が根強く残っていたのでは?
否、日本の今の世でもこの発想があるやに思えます。
ところで、張政さんが彼女に「檄(頑張れっ)」て「告喻」のです。
そして、張政さん等の帰国に際し
「壹与」さんは「詣臺(宮殿に詣でて)」土産物をセットし
「掖邪狗」等20人を魏王朝に派遣したのです。
張政さん等は「邪馬壹国」に長期間、滞在していた事が分かります。
但し、247年来倭し、何年までいらしたのかは残念ながら不明です。

ここでの漢字表記「邪馬壹国」・「壹与」・「詣臺(=台)」の
「壹」と「臺」違いにご注意下さいませ。
これにつきましては、後日、触れることにします。 続く。

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2019年8月 3日 (土)

張政が倭女王卑弥呼情報を 689

帯方郡から倭国に派遣されたお役人さん等は
240年と247年に来倭されています。
魏志倭人伝で年号が明確に記されている箇所を取り上げますと

238年06月に「難升米」らを帯方郡へ派遣
238年12月に魏王朝が倭女王卑弥呼へ「詔書」発布
240年帯方郡太守、「弓遵」が「難升米」らの帰国に伴い
   「梯儁」等を倭国に派遣 曹叡の制詔で作成・製されたされた
倭女王卑弥呼への「親魏倭王」の「奉詔書」「印綬」等が届く
243年伊聲耆・掖邪狗等八人を「親魏倭王」授与への返礼訪問
245年難升米への「黄幢」を与える詔、帯方郡へ
247年弓遵戦死に伴い、帯方郡太守、「王頎」が着任 倭女王は
狗奴国との不和から「載斯烏越」等を帯方郡派遣し戦況報告
太守王頎は「張政」等を急遽倭国へ遣わし「黄幢」(245年)を
難升米に伝授、「檄」を為し「告喻」した

以上になりなす。この部分のみ年号月が記されているのです。
240年は「梯儁」さん等、及び、247年は「張政」さん等です。
お二人の内、張政さんは明確に「邪馬壹国」を訪れています。
(「張政等因齎詔書黄幢 拝仮難升米為檄告喻之」)
従って、倭女王卑弥呼とご一緒に食事をされたかは不明ですが
必ず、お会いになり、お住まいをご覧になったと思われます。故に、
倭女王卑弥呼さんの微細情報は「張政」さんに依るものとなります。
只、この次の記述が「卑彌呼以死 大作塚」と続くのです。
卑彌呼さんがいつお亡くなりになったか定かではありませんが
死後、「大作塚(お墓を大きく作った)」のですから狗奴国との戦には
勝利していた事になります。
しかしながら、彼女の死因は不明。高齢だった故、老衰だったやも。
 続く。

今年の夏も暑いの一言。
暫し 夏休みを。

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