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2019年6月29日 (土)

宮廷儀礼 玉璋を掲げ玉座へ 684

夏商集団(後の夏王朝)が企画・制作した「宮廷儀礼」とは。
見る人を完膚無きまで圧倒する桁違いのイベントショーとは。
先ず、夏王朝リーダー(王)と観客との対面構造。
観客が王を「見上げる」目線となる、庭と壇上(朝堂)との装置設定。
イベント日当日の早朝から観客はイベント会場(市場⇒朝庭)に入場。
(但し、観客はお土産<献上品=朝貢品>持参の事)
一番最後に王はゆっくり厳かに「玉璋」を掲げ、壇上に進み、玉座へ。
*玉璋・・高価な「玉」製の祭祀具
枝(取っ手)部分を「龍」で象った夏王朝特製祭祀具に。
「玉璋」は
中国東部山岳地域で神への祈り用具として使用されていたものとか。
「龍」は
夏商集団(後の夏王朝)が聖霊として信仰していた「水神」。
龍について、女性民俗学者「吉野裕子(1916~2008)」さんは
「中国では祖先神は、伏羲と女媧という人間蛇身の夫婦神である。
 略 古代には、人間の蛇への変身、または蛇の人間への変身が
 信じられていた。雨をもたらすものとしての『竜』は、すべての善事
 の象徴である。五つの爪をもった竜は皇帝の権力を表わし、皇帝に
 関して竜顔・竜座などの語があり、竜は皇帝の守護神である。」
(日本人の死生観 蛇 転生する祖先神 P18 河出書房新社)
と記されています。
*伏羲(ふっき)・・中国の伝説上の皇帝
*女媧(じょか)
中国における伝説上の人頭蛇体の女神。
五色の石を練って天の割れめを修繕したという。
(日本国語大辞典 小学館)
龍は又後に触れます。 イベントの続きは
王の着席を以て、「三跪九叩頭(さんききゅうこうとう)」。
三回跪き、各々三回頭を下げる挨拶はかの時代あったか不明ですが
何らかの王と観客との挨拶行為、相コンタクトはあった筈。
その次は
王お世話役担当者からの口上
「遠路はるばるお足元の悪い中お越し下さいまして・・・・・。」
お次は
観客持参のお土産(貢ぎ物)の披露。
観客の皆さんの内訳は
各商都の夏商リーダー
各部族の首長、或いは、遣使(代理人)
夏王朝の高級官吏(夏王世話役の長)
夏王朝の手工・土木担当者の長
選りすぐった農業従事者の長
この披露は時間の許す限り?
とは云うものの手短に済ませたと思われるのですが?
 続く。

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2019年6月22日 (土)

市場⇒朝庭⇒朝廷へ 683

夏(華)人が作り上げた城郭商都の内部構造で一番大切な空間は
なんと言っても「市場(いちば)」になります。
さて、この市場は一体何処に?
ラストエンペラーをご覧になった方はイメージできると思われますが、
皇帝を前にして多くの方々がひれ伏す広ーいあの場所なのです。
ここがまさに「市場」で「朝庭」。
早朝からこの庭で(朝庭)イベントを(朝市)開催。
企業の朝礼と違いこのイベント、毎日ではございません。
たぶん、定期的に決められた日に行われていたのでしょう?
この「朝市」は円滑に機能したと思われます。
時を重ね、近隣他部族のみならず、遠隔地部族との交易が増え
商人達は益々裕福、それに伴い集団人口増を来します。
やがて、
自ずとこの集団生活の維持・護持・発展、及び、
他部族との諍いを起こさない機能(政治)が必要な状況を迎えます。
B.C.2000頃~B.C.1600頃のどこかの時点で、
ここのリーダー(首長=王)が思いを巡らし考え出したのです。
それは、この空間利用を商行為(市場交易)だけに留まらず、
夏商集団の権威付けとしての「宮廷儀礼空間」として利用です。
夏商集団内だけでしたらある程度の諍い等は治めることは可ですが、
他部族とはどこかのある時点で利害不一致を起こし、
もめ事に及ぶ事態が発生する事は簡単に想像できます。
争い事が生じる事態に陥りそうだったから
武力(力尽く)を伴わない方法として編み出したシステムだったやも?
多分、そう考えた方が利潤追求商人集団の論理に叶いそう。
然らば、その頭を捻り、練りに練った「宮廷儀礼」システムとは。
それは「文化を以てしての圧倒的なブラフ」。
緻密にビジュアルを駆使、
みんながあっと驚くイベントショーの企画・制作(プロデュース)。
これって、今現在も、規模は違えど、日常的なものでは?
このイベントショーは空前絶後の大成功。
市場であった朝庭が「朝廷」に変容したのです。
 続く。

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2019年6月15日 (土)

夏(華)人商都が発展 夏王朝 682

交易が成功し、富が蓄積された「商業都市=商都」の商人達は
やがて更なる蓄財の為、交易地区(商都)増を企図。
これが商都の発展となり、各地区・地域に商都が散在する状況に。
各地区・地域のリーダーは各々の「もの(=商材)」情報を得る為、
情報の遣り取りネットワークを結ぶ事になります。
そして、
一番効率が良い商都を「首都」とし、
互選、或いは、力尽くでリーダーになり、「首長⇒王」に。
「首長⇒王」は首都と各商都の経済発展を遂げる方策として
「官吏」「商売」「水土(土木)」「手工」を得手とする者らを
首都城郭内に住まわせ育みます。
又、敵対する賊徒に襲われる懸念が生じた際には
食料調達担当、農業従事者達保護の必要性から城郭内に
避難用の収容施設も設置。
但し、農業従事者達の日常は城郭外で食料生産に勤しむのです。
後先は別として、農業従事者達保護名目で彼らより「保護費=租税」を
徴収するメカニズムを導入。
これにて王朝らしきものが一応完成。
試行錯誤を繰り返し、時を経て、厳かな「夏王朝」の出来上がり。

否、その前に「夏王朝」が考え出した「経済システム」以外に「王朝」と
なり得た「システム」が存在します。
それはこの「経済システム」が円滑に機能した結果の「システム」です。
広大な中国大陸には、この時点でも
数多くの「血族」・「部族」の存在が認められています。
*血族・・祖先が同じで血の続いている人々
*部族・・一定の地域に住み、共通の言語・宗教などをもつ共同体
(日本国語大辞典 小学館)
夏王朝の商人達はより利益が上がる目新しい「もの」を求め、
文化が異なる血族・部族集団地域へ足を伸ばし商売をします。
これらの第二弾の商人達が夏(華)僑・夏(華)商と言われた方々。
第一弾の夏(華)僑・夏(華)商は云うまでもなく
華中の長江、淮河の流域から河川を遡り「中原」で商売をした夏人。
*中原・・黄河中流域の平原地帯
これにより夏(華)僑・夏(華)商ネットワークは格段に広がります。
 続く。

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2019年6月 8日 (土)

夷(夏=華)人 商業都市=商都を 681

「夏王朝」の存在が明らかになった事で
先週紹介した岡田さんの論述
「夏人は華中の長江、淮河の流域の、『夷』と呼ばれた東南アジア系の
 原住民の出身で、南方から舟に乗って河川を遡ってきて、秦嶺山脈
 にぶつかったところで舟を下りて、そこに商業都市を建設し、北方の
 狩猟民や遊牧民と交易をした。」
ここの「夏人」と「狩猟民・遊牧民(異民族)」との
「交易(=物々交換商い)」が明確になったのです。
華中の長江、淮河の流域で暮らし財をなした夏人(夷)が
更に一旗揚げ、財を増やそうと考え、河川を遡った方が
「夏(華)僑・夏(華)商」の一番最初。
農業生産だけの営み生活では財は決して膨らみません。
但し、彼らの最初の「商材」は「お米」の筈。
河川を遡る途中、各所の地域農民の作物、麦・粟・黍・豆等々とも交換
したと思われます。これにて多様な「商材群」に。
「経世済民(=経済)」の始まりはまさしく「交易」から。
これ以外、決してあり得ません。
世界を股にかけて交易する「商人」。
今現在でも一方の「物」が「貨幣」になっているだけで
「グローバル交易」は貫徹されています。
「ユダヤ商人」・「華僑」・「印僑」等の方々が
世界ネットワークを満遍なく牛耳っておられます。
岡田さんのおっしゃる東アジアの東南地域で暮らして
いた「夷(夏=華)人」が河川を利用し、
やがて黄河南岸に拠点を置き黄河北方で生活を営んでいた
「(北)狄人」と商売をし
(北狄人の取引商品は貂(てん)等の毛皮、薬草、天然塩、家畜、
 羊等から絞った乳製品等々)
この交易により裕福な方はバランスの良い食事とおしゃれが可能に。
「財」をなし、市場、及び、商人達の住居を固定、
治安維持の為、それらの周りを堅固な壁(城郭)で固める空間を設営、
この空間が
「商業都市=國⇒国 くに」となっていったのではないでしょうか。
その各商業都市同志がネットワークされ「邦(=大国 くに)」へと。

「新漢和辞典」 (諸橋轍次ら・大修館書店)では
「國」形声文字
 囗は意符 四方の城壁や境界の封(もりつち)を表す
 惑は音符 人の集まり住んでいる土地
  戈は守備を表す
  口は人を表す
  一は土地を表す
と説明されています。 正に「商業都市=商都」そのものでは。
 続く。

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2019年6月 1日 (土)

華僑・華商ネットの魁け夏(華)人 680

かの時代、未だ中央集権されていない倭人の国々は「情報機関」など
持つことさえ考えも及ばなかった筈?
然らば、
公孫淵の滅亡を察知した某情報機関は一体どちら様か云うと
自ずと韓半島・倭国を結ぶ「華僑・華商ネットワーク」になるのでは。
*華僑
(「華」は、中国人、「僑」は仮住居の意) 中国人の海外居留民。
特に東南アジアに多く住み、世界経済に対して強い影響力を持つ。
*華商
他国に住む、中国の商人。
華僑(かきょう)と同義に用いられたこともあった。
(日本国語大辞典 小学館)
上記の辞典の説明は近現代の華僑・華商と思われますが、
「華僑・華商」の概念は今から4,000年前から存在している感なのです。
後に又、触れますが、
「三国志魏書 魏三十(倭人伝)-2」の2行目
「自古以来 其使詣中国 皆自称大夫 夏后少康之子封於会稽」
倭人の風俗説明の箇所に出現するフレーズ。
古代より、中華の「華(か)」はこの「夏后」の「夏(か)」と同義。
*夏(=夏后<かこう>)
中国最古の伝説的な王朝と云われていたが昨今実在が確認される。
*夏后少康・・夏朝第6代帝とされている方
「夏(華)僑・夏(華)商」ですが
「倭国」 岡田英弘著 中央公論新社 1977年初版 P9 に
「夏人は華中の長江(揚子江)、淮(わい)河の流域の、『夷(い)』と
 呼ばれた東南アジア系の原住民の出身で、南方から舟に乗って河川
 を遡ってきて、秦嶺(しんれい)山脈にぶつかったところで舟を下り
 て、そこに商業都市を建設し、北方の狩猟民や遊牧民と交易をした。
 それが、発展して、黄河の南岸の洛陽(らくよう)盆地に首都を置き、
 支配下の諸都市と水路で連絡する国家にまで成長したもののようで
 ある。」
*秦嶺山脈
中国、陝西省の太白山から、河南省の伏牛山脈まで、渭水と漢水
の間を東西に走る山地の名。広義には甘粛省南部の岷山から、安
徽省中部の大別山脈までをさし、淮河(わいが)とともに華北・華中
の境界となっている。最高峰は太白山(3767m)。
(日本国語大辞典 小学館)
*交易・・互いに物々交換をする取引、商(あきな)い。
岡田さんは裏が取れないので文末を推量にしておられます。
(1977年出版時点では夏王朝城郭遺跡は未発見なのです。)
しかし、2004年
中国政府は「二里頭遺跡」を「夏王朝遺跡」と正式認定。
(河南省洛陽市偃師市翟鎮二里頭村)
推定年代B.C.2000頃~B.C.1600頃の「夏王朝」が存在したのです。
 続く。

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