帯方郡奪還 察知情報機関 679
卑弥呼の朝献要請を受け、帯方郡太守、「劉夏」は難升米等を
魏の都、洛陽へ送り届けています。
その年、238年12月魏皇帝(曹叡)は倭女王宛て
「制詔(みことのり)」を発しています。
従って、238年6月・12月の情報は帯方郡、及び、洛陽に記録されて
いた事になります。
*曹叡
魏朝第二代皇帝(204 or 206~239/1/1 在位226~239)
三国志 魏書 明帝紀
「(景初)三年(239年)春正月丁亥 略
即日帝崩于嘉福殿 時年三十六」
陳寿は「時年三十六」から204年生まれと記述。
但し、204年生誕の場合は父、曹丕の実子でなくなるとか・・・・・。
この事は倭女王との接点にそれ程関連がありませんので
研究者の方々に解明をお願いします。
又、曹叡は238年12月の時点、大病で伏せっていましたので
彼が「制詔」の内容をしかと把握していたかは甚だ疑問ですが
「魏朝廷」発信ですので全く問題は生じないと考えます。
これらの事象よりも238年6月に「帯方郡」を
魏朝が公孫淵から奪還していた情報を
倭女王、卑弥呼が知り得ていた事に驚きです。
「明帝、燕王 公孫淵征討決意」をご覧下さい。
司馬懿は238年夏(4・5・6月)に公孫淵征討部隊を結成して
東北へ向かうのです。
本部隊は公孫淵が籠もる遼陽城(現在の遼寧省)へ、
別部隊は公孫淵の背後を突く為、楽浪・帯方郡地区殲滅に。
楽浪・帯方郡の攻略、確保は
少なくても5月中に完了してなければ辻褄が合いません。
どちら様かが楽浪・帯方郡陥落情報と
尚且つ、この年の秋、8月に公孫淵が魏軍に敗北すると云う
確固たる未来事実(予想)を見通していた事になります。
これを察知する情報機関はとても優秀としか云いようがありません。
AI・Webはおろか電信電話等がない時代なのですよ。 続く。
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