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2019年4月20日 (土)

陳寿 呉滅亡で三国志執筆 675

陳寿の三国志執筆は280年3月呉滅亡以降と思われます。
呉が未だ君臨していたなら魏・晋朝の正統性を記載できません。
もう一つ、三国志で異国を記述した部分は
「魏書三十 烏丸鮮卑東夷伝」のみなのです。
北狄(烏丸鮮卑以外)・西戎・南蛮の国々の子細は一切ありません。
この「烏丸鮮卑東夷伝」の中でも圧倒的に「東夷伝」の分量が
圧倒的に多いのです。
これらの細かい著述はある部分、張華の情報提供と思われるのです。
張華の人望とスピード出世を嫉む既得権豊富な官僚は何とか
彼の追い落としを常に謀っていました。
晋書 張華伝に依ると、
司馬炎大お気に入り「荀勖(?~289)」が首謀者とか。
彼の恨みにより、張華は中央から地方へ飛ばされてしまいます。
282年 張華は持節 都督幽州諸軍事 領烏桓(丸)校尉 安北将軍
を拝命(東北方面郡総司令官)として辺境に赴任します。
とは云うものの、この地、幽州(燕国 後の北京)は彼の故郷。
中央へ呼び戻される289年迄、彼は持ち前の才能・政治力を駆使、
遼西・遼東地区、楽浪・帯方郡はもとより、
烏丸、鮮卑、夫余、高句麗、沃沮、挹婁、馬韓、辰漢、弁辰、倭に
住まう方々を慰撫、善政を敷いた為、それ迄歴代王朝に「朝献」しな
かった20余国が晋王朝の首都洛陽へ使者を遣わし「朝貢」したとか。
又、穀物豊作・人馬屈強となり
北東西方面に対する「虞(おそ)」れがなくなったと。
*朝献=朝貢
お土産持参、朝会に参列、皇帝に拝謁、皇帝から返礼土産を頂く
一連の儀式。朝献側は存在認証、皇帝側は朝廷内・民への示威。
*虞・・懸念、心配、憂い、恐れ。
余りにも張華の業績が芳しい故、「朝議」で、張華を中央呼び戻し
「(宰)相」にし、「号」を「儀同(=儀同三司)」とする決定。
しかし、ここでも張華の昇進を阻むお方、「馮紞」の策謀で(宰)相の件
は没、289年漸く張華は洛陽に帰京し閑職である「太常」に就任。
但し、運悪く「太廟屋棟」が破損、免職の憂き目に遭う事に。
以後、張華は司馬炎皇帝の間、「列侯」のみで「朝見」したとの事。
*儀同・・儀礼の格式が三司(馬・徒・空)に同じの意
*馮紞・・(?~286)司馬炎お気に入り官僚
*太常・・宗廟礼儀を掌る職
*宗廟・・祖先の霊を祀る宮殿
*列侯・・最上位爵位
*朝見・・天子(皇帝)に拝謁する事
289年 張華58歳 陳寿57歳
陳寿はこの間、「三国志」執筆に勤しんでいたのでしょう。
大半は完了し残すは「烏丸鮮卑東夷伝」だったのでは?
7年間に及ぶ辺境政軍務に当たった張華に陳寿はそちらの状況を
逐一お聞きになったと思われます。 続く。

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