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2019年3月23日 (土)

陳寿(壽)の素敵な人となり 671

陳寿(壽)は三国志、蜀の軍師・丞相、諸葛亮(孔明)が五丈原で
病死(234年)する前年の233年、
巴西(はせい)郡 安漢県(現在の四川省南充市)で生を受けます。
後、「譙周(しょうしゅう)(儒者)(?~270)」に師事し、蜀の官僚に。
しかし、上司に媚び諂わず、阿ねない為、出世は覚束なかった感じ。
又、父親他界に伴う喪期間中、繊細な陳寿(壽)は思わず疾患。
その際、お手伝いさん(女性)に「丸薬」を作って貰い服用。
この一件を垣間見た野暮な弔問・お見舞い来られた方が周りに吹聴。
ご近所、地元の方々に白い目で見られる羽目になり、失職。
何やら、「儒教」では「父母の死3年の喪(実質25ヶ月間)」の礼が
あったとかで、この間は職を辞し、外出を控え、
質素倹約生活に勤しまなければならなかったとの事。
ましてや、伏せる寝所に女性を入れるのはもっての他だったとか。
やがて、蜀は魏に平定されてしまいます(263年)。
劉禅(蜀漢第二代皇帝)(207~271 在位223~263)に
前出、陳寿(壽)の師匠、譙周が魏軍への降伏を進言したのです。
劉禅は受け入れ、ここに蜀漢は滅亡。
陳寿(壽)はこの時点で押しも押されもせぬ若壮年の御年31歳。
国が消滅したのですから職に就けず陳寿(壽)は浪人状態。
一方、蜀を制圧した魏朝は司馬懿の息子達が実質支配していました。
そして、265年、司馬懿の次男、司馬昭(211~265)が病死、彼の息子
司馬炎(236~290)が跡を継承、魏皇帝を圧迫、禅譲の形を取り、
皇帝位を簒奪、「晋朝」を打ち立てのです。
その後、3年経過しますが268年、
「晋書」巻八十二 列伝五十七
陳寿(壽)と同じく譙周に師事した羅憲(?~270)等伝に
「初 (羅)憲侍宴華林園(皇帝御苑)
  詔問蜀大臣子弟 後問先輩宜時叙用者
 (羅)憲薦蜀人 常忌 杜軫等 皆西国之良器 武帝並召而任之」と。
この記述の元と思われる
「襄陽記」の羅憲のところで
「(泰始)四年(268年)三月 従帝宴於華林園 詔問蜀大臣子弟
 後問先輩宜時叙用者 (羅)憲薦蜀郡常忌 杜軫 寿良 巴西陳寿
 南郡高軌 南陽呂雅 許国 江夏費恭 琅邪諸葛京 汝南陳裕
   即皆叙用」
*襄陽記・・東晋の官僚、習鑿歯(しゅうさくし)(?~385?)の著作
 「漢晋春秋」も彼の作
羅憲の推挙により陳寿(壽)は晴れて西晋の官僚の職を得ます。
 続く。

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