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2019年3月30日 (土)

張華 陳寿(壽)の才を愛す 672

陳寿(壽)は268年西晋の役人に途用されます。
晋書には、
「司空張華愛其才 以寿雖不遠嫌
 原情不至貶廃 挙為孝廉 除佐著作郎 出補陽平令」と。
「張華」につきましては、今となっては昔、むかし5年前に少しだけ
紹介しました。
「烏丸鮮卑東夷傳(伝)」
張華が陳寿(壽)の才能をこよなく「愛」したと記述されています。
陳寿(壽)の風貌ではなく
「才」ですから張華は決して男色でありません。

因みに「愛す」ですが、日本国語大辞典(小学館)では
愛する
一 人や動物に対して心が引かれる場合。
① 非常に気に入って、いちずにかわいがる。寵愛する。
② 好意を相手への行動として示す。また、特に、なでさする。
  愛撫する。
① (男女の間で)慕わしく思う。好きだという気持になる。
  恋しく思う。
二 物事に対して心が引かれる場合。
① 貴さ、美しさなどを感じて、強く好きに思う。
② 美しさ、おいしさ、良さなどを好んでそれを楽しむ。愛好する。
  賞美する。
三 (一説、相する)適当に扱う。子供などのきげんをとる。
四 (キリスト教で)神があらゆるものをいつくしむ。またそのよ
  うな精神で、自分以外のものをかけがえのないものと思う。
[語誌]
(1)対象となるのは人・動植物・物事などさまざまであるが、対象
 への自己本位的な感情や行為を表わすことが多い。また、人に
 対して使う場合は目上から目下へ、強者から弱者へという傾向
 が著しかった。
(2)明治中期 英 love  ドイツ lieben などの翻訳語として採用され、
 西洋の「愛」と結びついた結果、
 人に対しては、対等の関係での愛情を示すようになる。
と説明されています。

当然、時代的に「love(ラヴ)・lieben (リーベン)」ではありません。
どの説明もしっくりしないと思いませんか?
「したしみを感じる」がなんとはなしにしっくりすると思いますが。
張華と陳寿(壽)の年の差はたったの1歳で同年代。
違いは魏~晋官僚歴。張華はバリバリ、陳寿(壽)は新人。
しかしながら、問題は「才能」。
張華は陳寿(壽)のほとばしる「才知・才覚」に感じ入ったのでしょう。
陳寿(壽)は彼のお陰で「佐(副)著作郎」職を得る事に。
*著作郎・・中書省に属して国史の編集や制作を司る職務
*中書省・・詔勅の立案・起草等を掌る役所
 続く。

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2019年3月23日 (土)

陳寿(壽)の素敵な人となり 671

陳寿(壽)は三国志、蜀の軍師・丞相、諸葛亮(孔明)が五丈原で
病死(234年)する前年の233年、
巴西(はせい)郡 安漢県(現在の四川省南充市)で生を受けます。
後、「譙周(しょうしゅう)(儒者)(?~270)」に師事し、蜀の官僚に。
しかし、上司に媚び諂わず、阿ねない為、出世は覚束なかった感じ。
又、父親他界に伴う喪期間中、繊細な陳寿(壽)は思わず疾患。
その際、お手伝いさん(女性)に「丸薬」を作って貰い服用。
この一件を垣間見た野暮な弔問・お見舞い来られた方が周りに吹聴。
ご近所、地元の方々に白い目で見られる羽目になり、失職。
何やら、「儒教」では「父母の死3年の喪(実質25ヶ月間)」の礼が
あったとかで、この間は職を辞し、外出を控え、
質素倹約生活に勤しまなければならなかったとの事。
ましてや、伏せる寝所に女性を入れるのはもっての他だったとか。
やがて、蜀は魏に平定されてしまいます(263年)。
劉禅(蜀漢第二代皇帝)(207~271 在位223~263)に
前出、陳寿(壽)の師匠、譙周が魏軍への降伏を進言したのです。
劉禅は受け入れ、ここに蜀漢は滅亡。
陳寿(壽)はこの時点で押しも押されもせぬ若壮年の御年31歳。
国が消滅したのですから職に就けず陳寿(壽)は浪人状態。
一方、蜀を制圧した魏朝は司馬懿の息子達が実質支配していました。
そして、265年、司馬懿の次男、司馬昭(211~265)が病死、彼の息子
司馬炎(236~290)が跡を継承、魏皇帝を圧迫、禅譲の形を取り、
皇帝位を簒奪、「晋朝」を打ち立てのです。
その後、3年経過しますが268年、
「晋書」巻八十二 列伝五十七
陳寿(壽)と同じく譙周に師事した羅憲(?~270)等伝に
「初 (羅)憲侍宴華林園(皇帝御苑)
  詔問蜀大臣子弟 後問先輩宜時叙用者
 (羅)憲薦蜀人 常忌 杜軫等 皆西国之良器 武帝並召而任之」と。
この記述の元と思われる
「襄陽記」の羅憲のところで
「(泰始)四年(268年)三月 従帝宴於華林園 詔問蜀大臣子弟
 後問先輩宜時叙用者 (羅)憲薦蜀郡常忌 杜軫 寿良 巴西陳寿
 南郡高軌 南陽呂雅 許国 江夏費恭 琅邪諸葛京 汝南陳裕
   即皆叙用」
*襄陽記・・東晋の官僚、習鑿歯(しゅうさくし)(?~385?)の著作
 「漢晋春秋」も彼の作
羅憲の推挙により陳寿(壽)は晴れて西晋の官僚の職を得ます。
 続く。

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2019年3月16日 (土)

晋書の陳寿(壽)情報 670

陳寿(壽)の人となりを「晋書」から読み解こうと思いますが、
何せ、「晋書」は陳寿(壽)<233~297>が
亡くなってから351年経て編纂されたものなのです。
晋王朝は
265~316年(首都は洛陽)の西晋時代から
317~420年(首都は建康=建業 現在の南京)の東晋時代まで。
「晋書」編纂者は
「隋(581~618年)・唐(618~907年)」時代の房玄齢(578~648)らと
されています。
「晋書」の「正史」認定は648年。
房玄齢が他界された年になるのです。
「晋書」は「三国志(65巻)」を遙かに上回る130巻に及ぶ書籍。
司馬懿(=高祖宣帝)(179~251)から始まり、
五胡十六国時代(304~439年)の方々も
網羅、記述されているのです。
為政者・官僚組織が違えども、その時代々々のどちら様かが
文書で残し、脈々と次の時代の方々へ受け継がれたご努力に
頭が下がる思いです。
一方、かの時代の倭人・倭国の方々は
鬼道を操る卑弥呼女王~~クーデター成功の中大兄皇子。
卑弥呼女王時代は
全ての自然物を「神」、「神の恵み」と考え、
日々、面白可笑しく過ごし、少しばかりの諍(いさか)いはあれど、
ご自分達の出来事等を文書に残そうなんて一向にお考えにならない
心大らかな方々。
「草木国土悉皆成仏」ってな時空?
(梅原猛さんは去る1月に大往生を遂げられました。)
故に、その素敵な大らかさのお陰で?
倭人・倭国の「状況(生の声)」が「全く、ちんぷんかんぷん」なんです。
 続く。

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2019年3月 9日 (土)

三国志の著者 陳寿(壽) 669

魏志倭人伝を読み込む前に「三国志」の著者、陳寿(壽)について
先に触れます。
陳寿(壽)について記されているのは「晋書」に列伝として
取り上げられています。
取り急ぎ、「晋書 巻八十二 列伝五十二」

「陳寿 字承祚 巴西安漢人也 少好学 師事同郡譙周
 仕蜀為観閣令史 宦人黄皓 專弄威権 大臣皆曲意付之
 寿独不為之屈 由是屢被譴黜
 遭父喪 有疾 使婢丸薬 客往見之 郷党以為貶議
 及蜀平 坐是沈滞者累年 司空張華愛其才 以寿雖不遠嫌
 原情不至貶廃 挙為孝廉 除佐著作郎 出補陽平令
 撰蜀相諸葛亮集 奏之 除著作郎 領本郡中正
 撰魏吳蜀三国志 凡六十五篇 時人称其善叙事 有良史之才
 夏侯湛時著魏書 見寿所作 便壊己書而罷 張華深善之 謂寿曰
 当以晋書相付耳 其為時所重如此
 或云 丁儀丁廙有盛名於魏 寿謂其子曰 可覓千斛米見与
 当為尊公作佳伝 丁不与之 竟不為立伝
 寿父為馬謖参軍 謖為諸葛亮所誅 寿父亦坐被髠 諸葛瞻又軽寿
 寿為亮立伝 謂亮将略非長 無応敵之才 言瞻惟工書 名過其実
 議者以此少之
 張華将学寿為中書郎 荀勖忌華而疾寿 遂諷吏部遷寿為長広太守
 辞母老不就 杜預将之鎮 復薦之於帝 宜補黄散 由是授御史治書
 以母憂去職 母遺言令葬洛陽 寿遵其志 又坐不以母帰葬 竟被貶議
 初譙周嘗謂寿曰 卿必以才学成名 当被損折 亦非不幸也 宜深慎之
 寿至此 再致廃辱 皆如周言 後数歳 起為太子中庶子 未拝
 元康七年(297年) 病卒 時年六十五 梁州大中正尚書郎范頵等
 上表曰 昔漢武帝詔曰 司馬相如 病甚 可遣悉取其書
 使者得其遺書 言封禅事 天子異焉 臣等案
 故治書侍御史陳寿作三国志 辞多勧誡 明乎得失 有益風化
 雖文艶不若相如 而質直過之 願垂採録 於是詔下河南尹洛陽令
 就家写其書 寿又撰古国志五十篇盆都耆旧伝十篇 余文章伝於世」

「晋書 巻八十二 列伝五十二」の原文はこちらでご確認下さい。
(国立国会図書館 電子図書館蔵書
「六朝文人伝 : 『晋書』(巻八十二)陳寿伝)

こちらは、「佐藤利行」氏(広島大学 国際部 理事)の論述です。
原文、及び、訓読・通釈が記載されています。
 続く。

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2019年3月 2日 (土)

魏志倭人伝の書き出し 668

通称、「魏志倭人伝」原文を紹介しました。
ご覧頂いてない際は
「三国志魏書 魏三十(倭人伝)」-1
「三国志魏書 魏三十(倭人伝)」-2
「三国志魏書 魏三十(倭人伝)」-3  をご確認下さい。

魏志倭人伝は
この時代の「倭人・倭」に関し、膨大な資料になっています。
従って、古来より多くの方々が色々な解釈を施されています。
ただ如何せん、裏付けが取れない為、
どの解釈も「想像の範囲」に留まり確証を得られない状況が現実。
一番の論争点は未だに「邪馬壹国」の所在地。
続くは「邪馬壹国」の「壹」の読み方等々、不明な所ばかり。
しかしながら、この倭人伝は倭人の為に陳寿が記述して下さった訳
ではないのです。
あくまでも「三国志」は「魏・晋朝」の正統性を主張する為に
記述された皇帝公認の「正史」となる歴史書。
倭人伝は「三国志」のほんの一部でしかないのです。
但し、(前)漢書に比して「倭人」に関する分量が圧倒的に多いのも
事実です。
「(前)漢書地理志 燕地」で「倭人」を扱って下さった箇所は
「楽浪海中有倭人 分為百余国 以歳時来献見云」
(楽浪海中に倭人あり。分かれて百余国となる。歳時を以て来た りて献見す)」
及び、もし「倭人」の事なら(陳寿が引用しています)
「(前)漢書地理志 粤(えつ)地」
「武帝元封元年(B.C.109) 
 略以為儋耳珠崖 民皆服布 如単被 穿中央為貫頭」
(これは後に触れます。)
だけなのです。
当時の漢人らにとっては「倭人」は
「東夷(とうい)」も「遠い」、「あづまえびす」に他ありません。
陳寿の「倭人伝」書き出しは
前記の「(前)漢書地理志 燕地」からの引用で
スタートしています。
「倭人在帯方東南大海之中 依山島為国邑 旧百余国 漢時有朝見者
 今使訳所通三十国」
前漢朝と魏・晋朝との時代の違いで楽浪(郡) ⇒ 帯方(郡)に
変化しているだけです。 続く。

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