明帝、燕王 公孫淵征討決意 664
遅ればせながら、
平成最後のお正月、明けましておめでとうございます。
今年も宜しくお願い申し上げます。
それでは、昨年の続きです。
237年明帝は公孫淵の不穏な動きに「母丘倹(?~255)」将軍を
荊州(湖北省)刺史(長官)から幽州(北京)刺史に任命、東北方面軍、
及び、同盟を結ぶ、烏丸(桓)(うがん)・鮮卑の兵士らを組織、公孫淵
抹殺に向かわせます。
公孫淵もこれに対し応戦体制。
この際、天が公孫淵に味方し大雨が続き、
母丘倹軍はやむなく撤退する羽目に陥ります。
これに気をよくした公孫淵は「燕王」を自称、魏より独立、孫権に秋波。
*烏丸(桓)
中国漢代、東部内モンゴリアのラオハ流域を根拠にしたモンゴル
‐ツングース系の部族。東胡の後裔(こうえい)。後漢末に一時強大に
なり、中国の北辺を脅かしたが、二〇七年魏(ぎ)の曹操(そうそう)に
滅ぼされた。
*鮮卑
古代北アジアの蒙古種に属する遊牧民族。五胡の一つ。匈奴の滅
亡により代わって蒙古を征し、二世紀半ばには大国となる。
(日本国語大辞典 小学館)
危機感を募らせた明帝は公孫淵征討を本気で決意。
ここで征討軍リーダーに起用されたのが西安に駐屯中の「司馬懿」。
238年夏、司馬懿は中央軍を率い東北へ向かい、母丘倹軍と合流。
遼河を渡り、公孫淵が籠もる遼陽城(現在の遼寧省)を包囲。
*遼河
中国、東北地区の南部を平野を貫いて流れる大河。
(日本国語大辞典 小学館)
ところが、又もや大雨の続く毎日。
しかし、司馬懿は準備万端、故に雨の上がりを待つ戦術に。
やがて、雨が止み地道に攻撃、季節は秋になり遼陽城は兵糧不足に。
兵の動揺を察知、
公孫淵は逃亡を図るもあえなく司馬懿軍に捕獲される顛末。
又、司馬懿軍の別部隊は既に楽浪・帯方郡を攻略、確保。
ここに、楽浪・帯方郡は公孫淵の手から離れ「魏」の施政化に。
いよいよ、正史三国志に「卑弥呼」さんが登場します。 続く。
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