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2018年12月 8日 (土)

死諸葛(孔明)走生(司馬懿)仲達 663

214年 劉備 成都(蜀)を占拠
215年 曹操 漢中を占領(張魯率いる鬼道神政国家が降伏)
219年 劉備 その漢中を攻略奪取
220年 曹操 死去(享年66歳) 息子、曹丕(文帝)が魏の皇帝に
226年 曹丕 僅か6年後に死亡(享年40歳) 息子、曹叡が皇帝に
曹丕(文帝)の遺言で
「曹真」「曹休」「陳群」「司馬懿」の4人が
曹叡(明帝)(204 or 206~239)を補佐・後見する事に。
曹真(?~231)・・曹操の甥 鎮西将軍として辺境西域等を防衛
曹休(?~228)・・曹操が育て親 征東将軍として江蘇・安徽省を防衛
陳群(?~236)・・侍従等官僚 鎮軍将軍として河南省を防衛
司馬懿(179~251)・・曹丕に重用 撫軍将軍 河南省許昌で孫権と対峙
229年 曹真の働きで大月氏王波調(はちょう)の使者が魏に来訪
明帝は「親魏大月氏王」の称号を贈与
231年 曹真が病死、諸葛亮が陝西省へ進撃
この危機に明帝は司馬懿を河南省許昌から西安に移駐させ防衛を。
(曹真の息子、曹爽<?~249>が未だ若くこの任が覚束ない為)
232年 孫権(呉)と劉備(蜀)が魏を東西から挟み撃ち協定を結ぶ
その一環として孫権は東北辺境の雄、公孫淵に使者を海路で派遣。
公孫淵は孫権を主君と仰ぐと表明。
233年 孫権は欣喜雀躍、公孫淵に「燕王」の称号と贈り物、及び、
一万人の将兵を海路で送る。
しかし、明帝は河北・山東省の軍に公孫淵討伐の命。
これに公孫淵は恐れ孫権の使者を殺害、明帝と和解、孫権怒り心頭。
234年 諸葛亮、五丈原で病死
*五丈原
中国陝西省西安市の西、岐山県の西南にある三国時代の古戦場。
二三四年、蜀の諸葛孔明が魏の司馬懿(しばい)と対戦し、病没した
(日本国語大辞典 小学館)
この「五丈原の戦い」で有名な故事、
「死諸葛走生仲達」(蜀書 諸葛亮伝注)
(死せる諸葛<孔明>生きる<司馬懿>仲達を走らす)。 続く。
 
ところで、今年もお世話になりました。
2018年度の出稿は本日でお仕舞い。
皆様におかれましては良いお年をお迎え下さい。

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