204年公孫康が帯方郡設置 662
一方、同時期、後漢朝の北東辺境だった「遼東・楽浪郡」の状況を
見る事にします。
遼東は現在の遼寧省遼河以東の地域。
189年公孫度(こうそんど)(?~204)が遼東太守(遼東郡長官)に。
董卓の洛陽クーデターに乗じて「遼東・玄菟・楽浪郡」を纏めて独立。
204年公孫度死去に伴い息子の公孫康(?~221)が遼東太守。
この公孫康が楽浪郡屯有県以南を分割、
帯方郡を設置したのです。
*帯方郡
古代、朝鮮半島の中部西岸に置かれた中国の郡名。後漢末に遼東
太守の公孫度が楽浪郡を併有、その子公孫康が同郡の南部を分割
して称したもの。三一三年、韓・濊(わい)族によって滅ぼされるま
で約一一〇年間存続。倭との通交で名高い。(日本国語大辞典)
後漢朝が事実上瓦解したので韓・倭の接点はこの「帯方郡」のみに。
公孫康がなくなった後に弟の公孫恭が継ぎ、
228年公孫康の息子、「公孫淵(~238年)」がリーダーとして登場。
上記が北東辺境での政治状況の推移。
この間中央中国大陸では皆さん大好きな
「魏・蜀・呉(三国時代)」に突入していたのです。
少しだけ触ると
各国の頭目、及び軍師・重臣は
魏・・曹操(155~220) 司馬懿(179~251)
蜀・・劉備(161~223) 諸葛亮(181~234)
呉・・孫権(182~252) 周瑜 (175~210)
各国の都は
曹操・・鄴(ぎょう)(204年~) 現在の河北省邯鄲市臨漳県
劉備・・成都(214年~) 現在の四川省成都市
孫権・・南京(211年) 現在の江蘇省南京市
三国時代の子細は皆さんよくご存じだからここでは省きまーす。
220年曹操が他界、
息子の曹丕(187~226)は名ばかりの皇帝「孝献帝」を退位させ
自ら皇帝になり国号を「魏」に改め、洛陽に遷都します。
故に、実質の三国時代は220年~となるのです。 続く。
| 固定リンク
コメント