張魯 漢中にて布教活動 660
「三国志」で鬼道について触れている箇所があります。
魏書八 張魯伝
「張魯字公祺 沛国豊人也 祖父陵 客蜀 学道鵠鳴山中 造作道書以
惑百姓 従受道者出五斗米 故世号米賊 陵死 子衡行其道 衡死
魯復行之 益州牧劉焉以魯為督義司馬 与別部司馬張脩将兵撃漢中
太守蘇固 魯遂襲脩殺之 奪其衆 焉死 子璋代立 以魯不順
盡殺魯母家室 魯遂拠漢中 以鬼道教民 自号師君 其来学道者
初皆名鬼卒 受本道已信 号祭酒 各領部衆 多者為治頭大祭酒
皆教以誠信不欺詐 有病自首其過 大都与黄巾相似
諸祭酒皆作義舍 如今之亭伝 又置義米肉 懸於義舍
行路者量腹取足若過多 鬼道輙病之 犯法者 三原 然後乃行刑
不置長吏 皆以祭酒為治 民夷便楽之 雄拠巴漢垂三十年」
五斗米道の創始者は「張陵」。
蜀(現在の四川省)の「鵠鳴山」で修行・布教活動に勤しむ。
賛同者は「五斗米」を供出することから「(五斗)米賊」と。
彼の死後、息子の「張衡」が二代目に。
この「張衡」の奥様が先週紹介した妖艶で鬼道を操る「張魯母」。
張衡亡き後、三代目が「張魯」。
時は190年、その前年「董卓」が洛陽でクーデター。
群雄割拠時代に突入。
すっかり張魯母の虜になった益州(蜀 現在の四川省)牧の劉焉は
彼女の息子、張魯をリーダとして五斗米道信徒らを「漢中」へ派遣。
この五斗米道信徒らは軍事集団でもあったのです。
*漢中
中国の秦嶺山脈と大巴山脈に囲まれた盆地状の地域。北は揚水盆地、南は四川盆地に通じ、漢水が貫流して東南は揚子江に通じる。漢の全国支配の拠点となり、三国時代には魏、蜀の争奪の地となった。漢。(日本国語大辞典 小学館)
張魯らは漢中太守「蘇固」らを殺害、漢中を占領する快挙。
張魯はそのまま漢中に留まり「鬼道」の布教活動を展開。
やがて(194年)劉焉が病死、息子の劉璋が後を継承。
張魯はその劉璋と折り合いが悪く、劉璋の命を聞き入れない始末。
この張魯の呈に劉璋は怒り心頭、(200年)
父の愛した張魯母の命を絶ってしまうのです。 続く。
三国志 魏書 張魯伝の原文はこちらでご確認下さい。
(国立国会図書館 電子図書館蔵書 「三国志魏書八」P739 18行)
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