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2018年10月28日 (日)

劉焉 益州(現四川省)牧に就任 657

後漢朝の都、洛陽での董卓の奮戦経緯を記しました。
当然の事ですが時間は分け隔てなく全ての方々に配されています。
184年黄巾賊の乱等発生以降の異空間を垣間見てみます。
先ずは洛陽の南西、益州(蜀 現在の四川省)、及び、漢中での空間。
*漢中
中国の秦嶺山脈と大巴山脈に囲まれた盆地状の地域。北は揚水盆
地、南は四川盆地に通じ、漢水が貫流して東南は揚子江に通じる。
漢の全国支配の拠点となり、三国時代には魏、蜀の争奪の地とな
った。(日本国語大辞典 小学館)
黄巾賊の乱等により各地は社会混乱に陥いります。
これを解消する為、188年孝霊帝は州牧(=刺史<地方長官>)
を各州に派遣します。益州担当に任命されたのが劉焉(?~194)。
彼は前漢景帝(B.C.188~B.C.141)の末裔とか。
ここからは「三国志」のお力を。
*三国志
中国の正史。六五巻。晉の陳寿撰。魏・呉・蜀三国の歴史。魏志
三〇巻、呉志二〇巻、蜀志一五巻からなる。魏志の「東夷伝‐倭
(魏志倭人伝)」は日本に関する最古の文献の一つで、日本上代史
研究上貴重な資料となっている。(日本国語大辞典 小学館)

三国志 蜀書 劉焉伝
「是時梁州逆賊馬相趙祗等於綿竹県自号黄巾 合聚疲役之民 一二
 日中得数千人 先殺綿竹令李升 吏民翕集合万余人 便前破雒県
 攻益州殺倹 又到蜀郡 犍為 旬月之間 破壊三郡 相自称天子
 衆以万数 州従事賈龍素領兵数百人在犍為東界 摂㪘吏民
 得千余人 攻相等 数日破走 州界清静 龍乃選吏卒迎焉 焉徙治綿
 竹 撫納離叛 務行寬惠 陰図異計 張魯母始以鬼道 又有少容
 常往来焉家 故焉遣魯為督義司馬 住漢中 断絶谷閣 殺害漢使
 焉上書言米賊断道 不得復通」
*梁州(現在の陝西省南部)

梁州の綿竹県で逆賊の馬相・趙祗等が黄巾と称。
梁・益州で反乱を起こすも益州従事賈龍により制圧される。
賈龍は劉焉を益州に迎える。
劉焉は離叛者を慰撫、益州人に心広くして恵む善政。
とは云うものの彼は「陰図異計(裏で謀を企図)」。 続く。

三国志 蜀書 劉焉伝の原文はこちらでご確認下さい。
(国立国会図書館 電子図書館蔵書 「三国志蜀書一ノ二」P7 18行)

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2018年10月20日 (土)

董卓 養子の呂布に殺害される 656

189年首都洛陽に入り相国まで登りつめますが翌190年正月早々、
関東で董卓打倒連合軍が結成されます。
*関東
(中国で)
函谷関より東の地方。
おもに現在の河南省北部および山東省をさす。
この董卓打倒連合軍のリーダーが廃帝に異論を挟んだ「袁紹」。
*袁紹(?~202)
中国後漢末期の群雄の一人。字は本初。汝南汝陽の人。霊帝の没
後、宦官を皆殺しにし、董卓を長安に逃走させて冀州<きしゅう>を
中心に勢力を増大。のち曹操と対立し、官渡の戦いに大敗した。
 汝南郡は現在の河南省東南部および安徽省阜陽市一帯。
*冀州
中国、古代の九州の一つ。現在の河北・山西二省、遼寧省遼河以
西および河南省の黄河以北の地域。
この反董卓連合軍に
皆さんよくご存じな「曹操」「孫堅→孫権」「劉備」らが
参加していたのです。
又、先週紹介しました「後漢書 献帝紀」
「白波賊寇河東」と記述されています。
*河東
中国の黄河東岸地方の通称。主に山西省西南部をさす
白波賊は「黄巾の乱」の残党の方々で「白波谷」をアジトにして
金品等を略奪・強奪・横奪した盗賊。
「後漢書 献帝紀」に記載される程ですから、かなりな強盗団だった?
この白波賊が江戸時代末期に無理矢理「義賊」と解釈され「白浪」に。
口上「知らざぁー言って聞かせやしょう。」で有名な
歌舞伎の演目「白浪五人男」になったとか。                
それはさて置き、董卓は政には全く興味がなく、
金銀財宝・酒池肉林がお好きだった観。
やがて人望を失った董卓は
192年4月養子の「呂布(りょふ)(?~198)」により
殺害されてしまいます。
2年と僅かと短め時空でも董卓にとっては幸せな時空であったのでは?
 続く。

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2018年10月13日 (土)

董卓 陳留王を帝位に 655

劉弁(小帝弁)と陳留王(劉協)を伴い、董卓軍は無事に洛陽に到着。
宦官達を悉く抹殺した袁紹率いるお疲れ気味軍は静養中。
そこで董卓は近衛軍らを自軍へ引き入れ軍事力増強。
朝廷において軍事力を背景に台頭。
更に、陳留王(劉協)が賢いと判断した董卓は
小帝弁を廃帝し陳留王を「帝位」につける策略へ。
これに異論を唱えた袁紹は自説が通らず洛陽を去ることに。
189年9月晴れて陳留王は
「孝献帝(184~234 在位189~234)」として即位。
小帝弁と孝献帝は母違い。
後漢書 献帝紀で孝献帝の母は「美人(女官名)」と記述されています。

後漢書 献帝紀

「孝献皇帝諱協 霊帝中子也 母王美人,為何皇后所害
 (189年)中平六年四月 少帝即位 封帝為勃海王 徙封陳留王
 九月甲戌 即皇帝位 年九歲 遷皇太后於永安宮 大赦天下
 改昭寧為永漢
  丙子 董卓殺皇太后何氏 中略
 乙酉 以太尉劉虞為大司馬 董卓自為太尉 中略
 冬十月乙巳 葬霊思皇后
 白波賊寇河東 董卓遣其將牛輔撃之 中略
 十一月癸酉 董卓為相国 中略
 (190年)初平元年春正月 山東州郡起兵以討董卓
  辛亥 大赦天下
  癸酉 董卓殺弘農王(元小帝弁) 白波賊寇東郡 中略
 (二月)丁亥 遷都長安 中略
 (三月)己酉 董卓焚洛陽宮廟及人家 中略
 (191年)二年春正月辛丑 大赦天下
 二月丁丑 董卓自為太師 中略
  夏四月 董卓入長安 中略
  六月丙戌 地震 中略
  冬十月壬戌 董卓殺衛尉張温 中略
 (192年)三年春正月丁丑 大赦天下 中略
  夏四月辛巳 誅董卓」

孝献帝の母は美人ゆえ何皇后の嫉妬する所となり殺害されています。
いにしえより「美人薄命」かしら
一方、董卓は廷身の最高位、「相国」をゲット。この世の春。 続く。

*相国
(国政を相<たす>ける人の意から)
中国で、宰相の称。秦の官名丞相の上に位置したが、後に丞相をもいった。

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2018年10月 6日 (土)

董卓 洛陽着 小帝弁探索 654

前週と同様資料は「後漢書」 董卓列伝です。
189年4月孝霊帝死去に伴い長男、劉弁(少帝弁)17歳が帝位に。
ここで漸く董卓が動きます。
時の権力者、劉弁の母の義兄、何進(かしん)が宦官勢力排除計画に。
それを拒む、劉弁の母、何皇太后。
(何皇太后は宦官のお陰で霊帝のお后になれたお方なのですよ。)
何進は何皇太后に圧力をかける為、地方の将軍達を洛陽に召喚。
この命により董卓は軍を率い「洛陽」へ赴くのです。
董卓が洛陽に到着する前、
何進と宦官との策謀・交戦が早スタート。
この戦いで何進は逆に宦官達に殺害されてしまいます。
何進一派である司隷校尉の袁紹らは予定通り宦官達を抹殺します。
そして、その合戦最中、宦官の段珪が劉弁と彼の義弟、陳留王(劉協)
を宮中から救出・逃避するのです。
董卓軍は宮城に火の手が上がるのを見て城に急行。
洛陽に着くや否や董卓は情報収集。
董卓は
宦官の段珪が連れ出した劉弁(小帝弁)と陳留王(劉協)確保を優先、
彼らの探索に進軍。
董卓に追われた段珪はもはやこれまでと自刃。
やがて劉弁と陳留王を発見、収容、保護。
董卓軍は洛陽へ帰還。
その道すがら、
劉弁は恐怖に戦き泣きじゃくるも陳留王は事の次第を董卓に説明。
これを以て董卓は「(陳留)王為賢」と判断するのです。 続く。

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