董卓 養子の呂布に殺害される 656
189年首都洛陽に入り相国まで登りつめますが翌190年正月早々、
関東で董卓打倒連合軍が結成されます。
*関東
(中国で)
函谷関より東の地方。
おもに現在の河南省北部および山東省をさす。
この董卓打倒連合軍のリーダーが廃帝に異論を挟んだ「袁紹」。
*袁紹(?~202)
中国後漢末期の群雄の一人。字は本初。汝南汝陽の人。霊帝の没
後、宦官を皆殺しにし、董卓を長安に逃走させて冀州<きしゅう>を
中心に勢力を増大。のち曹操と対立し、官渡の戦いに大敗した。
汝南郡は現在の河南省東南部および安徽省阜陽市一帯。
*冀州
中国、古代の九州の一つ。現在の河北・山西二省、遼寧省遼河以
西および河南省の黄河以北の地域。
この反董卓連合軍に
皆さんよくご存じな「曹操」「孫堅→孫権」「劉備」らが
参加していたのです。
又、先週紹介しました「後漢書 献帝紀」に
「白波賊寇河東」と記述されています。
*河東
中国の黄河東岸地方の通称。主に山西省西南部をさす
白波賊は「黄巾の乱」の残党の方々で「白波谷」をアジトにして
金品等を略奪・強奪・横奪した盗賊。
「後漢書 献帝紀」に記載される程ですから、かなりな強盗団だった?
この白波賊が江戸時代末期に無理矢理「義賊」と解釈され「白浪」に。
口上「知らざぁー言って聞かせやしょう。」で有名な
歌舞伎の演目「白浪五人男」になったとか。
それはさて置き、董卓は政には全く興味がなく、
金銀財宝・酒池肉林がお好きだった観。
やがて人望を失った董卓は
192年4月養子の「呂布(りょふ)(?~198)」により
殺害されてしまいます。
2年と僅かと短め時空でも董卓にとっては幸せな時空であったのでは?
続く。
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