董卓 陳留王を帝位に 655
劉弁(小帝弁)と陳留王(劉協)を伴い、董卓軍は無事に洛陽に到着。
宦官達を悉く抹殺した袁紹率いるお疲れ気味軍は静養中。
そこで董卓は近衛軍らを自軍へ引き入れ軍事力増強。
朝廷において軍事力を背景に台頭。
更に、陳留王(劉協)が賢いと判断した董卓は
小帝弁を廃帝し陳留王を「帝位」につける策略へ。
これに異論を唱えた袁紹は自説が通らず洛陽を去ることに。
189年9月晴れて陳留王は
「孝献帝(184~234 在位189~234)」として即位。
小帝弁と孝献帝は母違い。
後漢書 献帝紀で孝献帝の母は「美人(女官名)」と記述されています。
後漢書 献帝紀
「孝献皇帝諱協 霊帝中子也 母王美人,為何皇后所害
(189年)中平六年四月 少帝即位 封帝為勃海王 徙封陳留王
九月甲戌 即皇帝位 年九歲 遷皇太后於永安宮 大赦天下
改昭寧為永漢
丙子 董卓殺皇太后何氏 中略
乙酉 以太尉劉虞為大司馬 董卓自為太尉 中略
冬十月乙巳 葬霊思皇后
白波賊寇河東 董卓遣其將牛輔撃之 中略
十一月癸酉 董卓為相国 中略
(190年)初平元年春正月 山東州郡起兵以討董卓
辛亥 大赦天下
癸酉 董卓殺弘農王(元小帝弁) 白波賊寇東郡 中略
(二月)丁亥 遷都長安 中略
(三月)己酉 董卓焚洛陽宮廟及人家 中略
(191年)二年春正月辛丑 大赦天下
二月丁丑 董卓自為太師 中略
夏四月 董卓入長安 中略
六月丙戌 地震 中略
冬十月壬戌 董卓殺衛尉張温 中略
(192年)三年春正月丁丑 大赦天下 中略
夏四月辛巳 誅董卓」
孝献帝の母は美人ゆえ何皇后の嫉妬する所となり殺害されています。
いにしえより「美人薄命」かしらん?
一方、董卓は廷身の最高位、「相国」をゲット。この世の春。 続く。
*相国
(国政を相<たす>ける人の意から)
中国で、宰相の称。秦の官名丞相の上に位置したが、後に丞相をもいった。
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