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2018年9月29日 (土)

三国志 最初の悪者 董卓登場 653

道教宗教結社の太平道・五斗米道が政府・地方政府に対し反乱を
起こすも政府軍に敢えなく潰されました。
但し、疲弊した状況は全く変わりません。
道教宗教結社軍に触発されたのか?状況変革の為、
次に立ち上がったのは各地方の軍人達だったのです。
しかし、彼らも軍隊の将軍達にいとも簡単に粉砕されます。
この結果、軍将軍の威勢が増すことになったのです。
ここら辺からは皆さん大好きな?「三国志」がフォローして下さいます。
黄巾の乱から5年後、
189年に後漢朝の都、「洛陽」でクーデターが生起。
このクーデターで漁夫の利を得たのが
地方軍担当将軍だった「董卓」(?~192)だったのです。
以下は「後漢書」 董卓列伝から 
又、*は日本国語大辞典 精選版 小学館から

184年持節・東中郎将を拝命 黄巾賊、張角軍と戦い敗戦した為に罷免
*持節
(「節」は君主の命を受けた使者が授けられるしるし) 節とくに
節刀を持つこと。また、その人。あるいは、その任務
*中郎将
中国の官名。宮廷警固にあたる五官署・左署・右署の三署を管理
した。将軍に次ぐ位。秦代から宋代までつづいた。中郎
184年冬涼州(現在の甘粛省)で反乱が起き復職
185年破虜将軍 羌族との戦 董卓軍のみ無傷で扶風に駐屯 斄郷侯に
扶風(ふふう)郡(現在の陝西省宝鶏市一帯)
*羌族
中国西北辺境の山岳地帯に散在するチベット系遊牧民。漢代にしばしば中国内地へ侵入し、唐代には党項、白蘭の名称であらわれ、のち西夏国を建てた。
188年前将軍 漢陽郡王国討伐戦 少府拝命するも拒否、扶風に駐屯
*少府
古代中国の官名。漢代には、宮中の服御・宝貨・珍膳のことを
つかさどった。
189年并州(山西省の大部分と河北省・内モンゴル自治区の一部)牧に
任じられるもまたもや拒絶。
*牧
古代中国の九州の長官。転じて、地方長官。

朝廷の勅命(栄転)を2度も拒んだ董卓、中々気概がある人物では?
 続く。

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2018年9月22日 (土)

五斗米道も反乱 後漢仏教摂取 652

太平道が蜂起した同じ年7月に「五斗米道(ごとべいどう)」の
張脩も地方政府に叛旗を翻し立ち上がります。
*五斗米道
中国、後漢末、張陵が蜀(四川省)で創始した宗教およびその教
団。病気の原因は当人の罪過にあるとして罪のあがないを説き、
祈祷による治療の謝礼に、米五斗(日本の五升)を出させた。後
漢末の動乱に乗じて多くの流民をあつめ、三代張魯のときには四
川から陝西省南部にかけて宗教王国を形成したが、215年魏の曹操
に降服した。しかし、その子孫は江西省の龍虎山に移り、
代々張天師を称した。張角の太平道とともに道教の源流とされる。
天師道。(日本国語大辞典 精選版 小学館)
一升=1.8ℓ。一升炊き炊飯器の5倍分のお米がお布施に。

「後漢書」 霊帝紀
「(184年)秋七月 巴郡妖巫張脩反 寇郡県」

只、こちらもその後の記述がないので即、制圧されたと思われます。
下々の民が生活苦に陥ると「宗教」にすがる構造です。
道教、及び、仏教が後漢のこの時期に興隆し始めたのです。

「後漢書」 西域伝
「世伝明帝夢見金人 長大頂有光明 以問群臣 或曰西方有神 名曰仏
 其形長丈六尺而黄金色 帝於是遣使天竺問仏道法 遂於中国図画形
 像焉 楚王英始信其術 中国因此頗有奉其道者 後桓帝好神 数祀浮
 図老子 百姓稍有奉者 後遂転盛」
楚王英=劉英(?~71) 光武帝のご子息 明帝は義兄
浮図(ふと)=仏画=仏陀

道教は中国製ですが、仏教は外来宗教。
仏教は明帝時代(在位57~75)に摂取され、彼の義弟、楚王英が信じ
始めた。その後、信者が増え、桓帝も仏陀を崇拝したことから民百姓
に至るまで信奉者が続出したと記されています。 続く。

後漢朝時代背景を確認する為に

01光武帝 (B.C6~57  帝位25~57) 即位31歳 在位32年
02孝明帝 ( 28~ 75 帝位 57~ 75) 即位30歳 在位18年
03孝章帝 ( 57~ 88 帝位 75~ 88) 即位19歳 在位13年
04孝和帝 ( 79~105 帝位 88~105) 即位10歳 在位17年
05孝殤帝 (105~106 帝位105~106) 即位01歳 在位100日程
06孝安帝 ( 94~125 帝位106~125) 即位13歳 在位19年
07少帝懿  正史で帝位否認    
08孝順帝 (115~144帝位125~144) 即位10歳 在位19年
09孝沖帝 (143~145帝位144~145) 即位02歳 在位5ヶ月程
10孝質帝 (138~146帝位145~146) 即位08歳 在位1年4ヶ月
11孝桓帝 (132~167帝位146~167) 即位14歳 在位21年
12孝霊帝 (156~189帝位168~189) 即位13歳 在位21年

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2018年9月15日 (土)

黄巾の乱 蒼天已死 黄天当立とは 651

今年3月某国営放送から
「中国王朝英雄たちの伝説
 『反逆者三国志の真相~黄巾の乱から曹操へ~』」
と云うタイトルで
オンエアされました。
この中で太平道、張角が起こした「黄巾の乱」の標題キャッチコピー、
「蒼天已死 黄天当立」に対する新解釈を提案。
既存の解釈は
蒼天⇒後漢王朝 黄天⇒太平道 と準え圧政に苦しむ民百姓が
時の政権に叛旗を翻したと。
新解釈は
「黄巾の乱の原因は地球規模の異常気象?」とし
蒼天⇒青(蒼)い空 黄天⇒黄色い空 であるのではと。
181年タウポ火山帯(ニュージーランド北島)の巨大火山噴火に伴う
天候異変に依る凶作がもたらしたものと。
この提案を補う資料として「後漢書」 五行志・霊帝紀をピックアップ。
取り急ぎ178年から自然現象を表記した部分を取り出してみます。

「後漢書」 霊帝紀、及び、 五行志六
「(178年)光和元年春正月
 二月辛亥朔 日有食之 己未 地震(霊帝紀)
  夏四月丙辰 地震(霊帝紀)
  八月 有星孛(彗星)(霊帝紀)
  冬十月丙子晦 日有食之(霊帝紀)
  (179年)三月 京兆(京兆郡・・現在の陝西省西安市一帯)地震
 夏四月甲戌朔 日有食之(霊帝紀)
  (180年)秋 表是地震 涌水出(霊帝紀)
  冬閏月 有星孛(霊帝紀)
 (181年)光和四年二月己巳 黄気抱日 黄白珥在其表(五行志六)
 六月庚辰 雨雹(霊帝紀)
  九月庚寅朔 日有食之(霊帝紀)
  (182年)夏四月 旱(干ばつ)(霊帝紀)
 (183年)夏 大旱(霊帝紀)
 冬 東海 東莱 琅邪 井中氷厚尺余(霊帝紀)
  (184年)中平元年春二月 鉅鹿人張角自称黄天 其部師有三十六万
   皆著黄巾 同日反叛(霊帝紀)」

「霊帝時 日数出東方 正赤如血 無光 高二丈余乃有景
 且入西方 去地二丈 亦如之 其占曰 事天不謹 則日月赤
  是時月出入去地二三丈 皆赤如血者数矣(五行志六)」

上記内、太赤印4点を取り上げていました。
確かに、一番最初に指摘された例証には
「(181年)光和四年二月己巳 黄気抱日」
181年2月「黄色の大気が日(太陽)を覆う」と記載されています。
二番目に指摘された
「日数出東方 正赤如血 無光」
日出の際度々とても赤くて明るさがない。
こちらに関しては「霊帝時(168~189年)」とされており明確な年月日
が表記されておりません。
三番目と四番目は
「(181年)六月庚辰 雨雹」 雹(ひょう)が降る。
「(183年)冬 井中氷厚尺余」 井戸に厚い氷が張る。
これらの記述からニュージーランド北島にある181年の
タウポ火山大爆発による噴煙が全地球を覆い
空一面に長期間滞留する気象異変現象をもたらしたものではと。
(東京都立大学 理学博士 野上道男氏の説)
この噴煙の地球滞留期間はおよそ2年間程と説明されていました。
しかしながら、
181年9月1日の「日食」が目視されているのです。
黄色の大気が覆っていればこの気象現象は観測されない筈では?
この程度の雨雹・旱・大旱の発生は
「王政君崩御 地球寒冷化?」をご覧いただくと分かりますが
こちらの13年~15年の「新王朝」の方が激しかったです事よ。
それにしても、「黄気抱日」は若干気にかかります。 
大凶作・大飢饉・大重税はいつの世にも民の敵とするところ。 続く。

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2018年9月 8日 (土)

搾取される民 黄巾の乱へ 650

外戚と宦官との利権獲得闘争は一向に問題がありません。
しかしながら、その「利」を生み出すのはあくまでも民衆。
「利権」の大部分の源泉である「租税」を納めるのは「幼気な民」。
この構造はいつの世も変わりません。
107年以降外戚・宦官の利権獲得闘争は続きます。
しかしながら、77年を要しますが
やがて、圧政の耐えられず気骨のある民・組織が立ち上がったのです。
それが通称、184年の「黄巾の乱」。

「後漢書」 皇甫嵩朱儁列伝
「鉅鹿張角自称 『大賢良師』 中略
 訛言 『蒼天已死 黄天当立 歳在甲子 天下大吉』」
(鉅鹿に在住の「大賢良師」と自称する張角が
 「蒼天<漢王朝>はすでに死せり
 黄天<太平道>まさに立つ
 歳は甲子にありて 天下大吉ならむ」と流言)
*黄巾の乱
中国の後漢末期、張角を首領として起こった農民の反乱。
黄帝老子の教えと称する太平道という一種の宗教組織のもとで困
窮した農民を集め、184年各地の信徒数十万を蜂起させた。農民た
ちは黄色の布をまとって目印としたので、当時の朝廷はこれを黄巾、あるいは黄巾の賊と称した。
*張角
中国、後漢末期の道士。鉅鹿(河北省)の人。
道教の一源流とされる太平道を唱えて、数十万の信徒をもつ宗教
結社を形成。のち政府の弾圧に伴い、184年に漢朝転覆を図って
黄巾の乱を起こしたが、病死した。184年没。
(日本国語大辞典 精選版 小学館)

「歳在甲子」は讖緯説の「甲子革令」から。
*讖緯
(「讖」は予言、「緯」は緯書) 陰陽五行説・日月五星の運行など
により未来を占う術。また、その書。中国の前漢末から南北朝に
かけて流行し、特に王朝革命の理論として利用されたが、弊害が
多いとして隋代に禁止された。わが国でも、王朝時代に盛行し、
辛酉革命、甲子(かっし)革令説がこれに基づくほか、年号を改める
場合の根拠となっている。讖緯説。〔後漢書‐方術伝上・廖扶〕
*辛酉革命
三革(さんかく)の一つ。辛酉(かのととり)の年には異変が多いとする一
種の予言説。干支によって吉凶の運を定める陰陽道では辛酉の年
を革命、甲子(きのえね)の年を革令、戊辰(つちのえたつ)の年を革運と
よんで特に重視し、平安時代以後、この干支に当たる年には天変
地妖、政変などを避けるために改元されることが多かった。
(日本国語大辞典 精選版 小学館)

184年(甲子年)太平道は蜂起しますが、
反乱決起日の密告・張角の死・軍事力に勝る政府軍により
同年にあっさり殲滅・鎮圧され太平道は瓦解する事に。 続く。

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2018年9月 1日 (土)

107年倭国遣使奉献以降の後漢 649 

107年以降の後漢はどの様な展開を辿っていたのでしょう。
時代が安定期に入ると利権獲得闘争に明け暮れるのは世の常。
B.C.1920年頃長江・淮河流域にお住まいの方が河を遡り秦嶺山脈に
至り下舟、その北方の狩猟民・遊牧民と交易をし黄河南岸の洛陽盆地
に商業都市国家を設置したと云われる「夏王朝」成立以降2000年以上
経過し様々な紆余曲折を経て文化を育んできた、かの中国人は
「どうも人間不信感」に陥っている民ではないかと思われます。
*秦嶺(しんれい)山脈
中国、陝西省の太白山から、河南省の伏牛山脈まで、渭水と漢水
の間を東西に走る山地の名。広義には甘粛省南部の岷山から、安
徽省中部の大別山脈までをさし、淮河(わいが)とともに華北・華中
の境界となっている。最高峰は太白山(3767m)
(日本国語大辞典 精選版 小学館)
「裏切りは当たり前」「昨日の友は今日の敵」等々。
この顕著の例は今はもうとうの昔で語られなくなった今年2月の冬季
五輪女子チームパシュートの戦い模様。
1900年に渡り中国文化の影響下にあった韓国チームの自分かっての滑
りと「人のことを慮る和を尊し」とする日本チーム女子団体との違い。
彼女らの栄光は「和文化の勝利」を云っても過言ではありません。
話を戻します。
利権獲得闘争ですが、
基本的に幼帝の際はその母及び外戚が権力を掌握しました。
しかし後漢以降、「宦官」が官職を得るようになり、彼らは専ら后・太后
に仕え、朝廷官吏と彼女らとのメッセージを取り成すようになります。
従って、外戚と宦官が利権獲得闘争のプレーヤーになったのです。
*宦官
中国で、貴族や宮廷の後宮に仕える去勢された男子。元来は宮刑に処せられた者を用いたが、王侯の側近となるため、去勢を志願する者もでた。西アジア、ローマ、ギリシアなどにもみられる。
(日本国語大辞典 精選版 小学館)

「後漢書」宦者列伝
「中興之初 宦官悉用閹人 不復雑調他士 至永平中(58~75)
 始置員数 中常侍四人 小黄門十人 和帝(10歳)即祚幼弱
  而竇憲兄弟專総権威 内外臣僚 莫由親接 所与居者 唯閹宦而已    故鄭衆得專謀禁中 終除大憝 遂享分土之封 超登宮卿之位
  於是中官始盛焉」

因みに「史記」を執筆した「司馬遷」、「紙発明」の「蔡倫」も宦官です。
但し、司馬遷は刑罰で蔡倫は権力闘争に関わった宦官。
後漢以後の宦官は生殖器をカットすれば役職の道が開けます。
しかし、ご自身の子孫を残せないデメリットも伴います。 続く。

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