五斗米道も反乱 後漢仏教摂取 652
太平道が蜂起した同じ年7月に「五斗米道(ごとべいどう)」の
張脩も地方政府に叛旗を翻し立ち上がります。
*五斗米道
中国、後漢末、張陵が蜀(四川省)で創始した宗教およびその教
団。病気の原因は当人の罪過にあるとして罪のあがないを説き、
祈祷による治療の謝礼に、米五斗(日本の五升)を出させた。後
漢末の動乱に乗じて多くの流民をあつめ、三代張魯のときには四
川から陝西省南部にかけて宗教王国を形成したが、215年魏の曹操
に降服した。しかし、その子孫は江西省の龍虎山に移り、
代々張天師を称した。張角の太平道とともに道教の源流とされる。
天師道。(日本国語大辞典 精選版 小学館)
一升=1.8ℓ。一升炊き炊飯器の5倍分のお米がお布施に。
「後漢書」 霊帝紀
「(184年)秋七月 巴郡妖巫張脩反 寇郡県」
只、こちらもその後の記述がないので即、制圧されたと思われます。
下々の民が生活苦に陥ると「宗教」にすがる構造です。
道教、及び、仏教が後漢のこの時期に興隆し始めたのです。
「後漢書」 西域伝
「世伝明帝夢見金人 長大頂有光明 以問群臣 或曰西方有神 名曰仏
其形長丈六尺而黄金色 帝於是遣使天竺問仏道法 遂於中国図画形
像焉 楚王英始信其術 中国因此頗有奉其道者 後桓帝好神 数祀浮
図老子 百姓稍有奉者 後遂転盛」
楚王英=劉英(?~71) 光武帝のご子息 明帝は義兄
浮図(ふと)=仏画=仏陀
道教は中国製ですが、仏教は外来宗教。
仏教は明帝時代(在位57~75)に摂取され、彼の義弟、楚王英が信じ
始めた。その後、信者が増え、桓帝も仏陀を崇拝したことから民百姓
に至るまで信奉者が続出したと記されています。 続く。
後漢朝時代背景を確認する為に
01光武帝 | (B.C6~57 帝位25~57) | 即位31歳 | 在位32年 |
02孝明帝 | ( 28~ 75 帝位 57~ 75) | 即位30歳 | 在位18年 |
03孝章帝 | ( 57~ 88 帝位 75~ 88) | 即位19歳 | 在位13年 |
04孝和帝 | ( 79~105 帝位 88~105) | 即位10歳 | 在位17年 |
05孝殤帝 | (105~106 帝位105~106) | 即位01歳 | 在位100日程 |
06孝安帝 | ( 94~125 帝位106~125) | 即位13歳 | 在位19年 |
07少帝懿 | 正史で帝位否認 | ||
08孝順帝 | (115~144帝位125~144) | 即位10歳 | 在位19年 |
09孝沖帝 | (143~145帝位144~145) | 即位02歳 | 在位5ヶ月程 |
10孝質帝 | (138~146帝位145~146) | 即位08歳 | 在位1年4ヶ月 |
11孝桓帝 | (132~167帝位146~167) | 即位14歳 | 在位21年 |
12孝霊帝 | (156~189帝位168~189) | 即位13歳 | 在位21年 |
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