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2018年8月25日 (土)

漢書 地理志 楽浪郡人口統計 648

楽浪郡が設置されたのはB.C.108年(前漢 武帝)。
「戦乱中 商人(華商)・難民避難」
やがて、漢は財政破綻に陥り、他3郡が廃止され
B.C.75年朝鮮半島には楽浪郡のみしか存在しなくなります。
「楽浪海中有倭人 分為百余国」

「漢書 地理志」に
「楽浪郡 戸六万二千八百一十二 口四十万六千七百四十八
 県二十五」(元始2年=A.D.02年の統計)

と記載されています。
家屋が62,812戸、人口が406,748人、県が25県。
県は中央が設置した数ですので特に問題はありません。
しかし、戸数と人口数の単位が一桁まで記述されています。
戸口調査、或いは、自己申告をさせたかは分かりませんが
02年に徴税・労兵役目的?で把握していた事実には驚きです。
単純平均で一戸に6.48人、祖父母・両親・お子さん2名以上かしら
当然漏れがあったと思われますので40万人以上の方々が楽浪郡に
お住まいされていたと考えられます。

因みに、岡田英弘さんに依ると
納税・労兵役請負契約を結んで初めて「中国人」と認められ、
それ以外は「北狄・東夷・南蛮・西戎」と称された
「蛮夷(野蛮人)」との事です。
従って、どのような民(民族)も「中国人」になれたのです。
「中国人」の最大のメリットは城郭に守られ商いに参加できた事とか。
(倭国の時代 岡田英弘 朝日文庫 p245)

この後、
08年に漢王朝は王莽に簒奪され、その王莽は一代限りが抹殺され、
25年に劉備の遠い末裔、光武帝が漢王朝を復活させます。
但し、この間、天候不順による凶作、戦に徴発され亡くなられた方、
戦乱から逃れ地域移動された方々がおられたと想像できます。
基本的に夥しい人口減に陥ったのではないかと。
光武帝が中国を再統一した後は
57年に 「倭奴国王遣使奉献」
107年に「倭国遣使奉献」と
倭人が後漢王朝の都、洛陽へ赴いていますので
比較的、平穏な年月が流れていたのでしょう。 続く。

尚、web上では
国立国会図書館 デジタルコレクション
「漢・韓史籍に顕はれたる日韓古代史資料」
「漢書地理志 楽浪郡」

戸数・人口を確認可能ですので是非ご覧下さい。

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