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2018年6月30日 (土)

57年・107年奴国・倭国朝賀参列 643

後漢書 東夷列伝の
57年倭の奴国が貢を奉って朝賀した記述の次がいきなり50年経過、

「安帝永初元年(107年) 倭国王帥升等献生口百六十人 願請見」
*請見(せいけん) 謁見を乞う事(日本国語大辞典)

と記されています。
107年倭国王、帥升(すいしょう)らが生口(せいこう)百六十人を献じ、
帝への謁見を願った。
生口は倭国に雇われた朝鮮半島にお住まいの方々かしら
この時代、後漢朝の帝は孝安帝、それも即位2年目。
後漢朝の帝の流れ整理しますと

1光武帝 (B.C.6~57  帝位25~57) 即位31歳 在位32年
2孝明帝 ( 28~ 75 帝位 57~ 75) 即位30歳 在位18年
3孝章帝 ( 57~ 88 帝位 75~ 88) 即位19歳 在位13年
4孝和帝 ( 79~105 帝位 88~105) 即位10歳 在位17年
5孝殤帝 (105~106 帝位105~106) 即位01歳 在位100日程
6孝安帝 ( 94~125 帝位106~125) 即位13歳 在位19年

後漢初代光武帝以降5孝殤帝迄は直系ですが、
孝殤帝の夭折に伴い、急遽3孝章帝のお孫さん6孝安帝が帝位に。
この経緯は取り巻き達の帝位継承権益獲得闘争の為。
後漢朝は1光武帝没50年程経過後にも内部崩壊が。
中国王朝「ごたごた崩壊パターン」の露見です。
6孝安帝即位を内外へ華々しく演出する為、
倭国朝賀参列が必要不可欠だったやも知れません。
「願請見」と記載されていますが、逆お願いであった可能性が大です。
後漢書 孝安帝紀に

「(永初元年=107年)冬十月 倭国遣使奉献」
*奉献 お土産を贈呈する事

倭国が使を遣わして奉献した。
とされていますのでこのイベントは大成功だったのでしょう。
又、「倭国王帥升等」から
107年の倭国王名は「帥升」、「等」から倭国に属する?「奴国」等の王
達(各地頭目)もお土産経費負担に参加されたと推定されます。

余談ですが、「倭国遣使奉献」の2年前(105年)、後漢の役人、
宦官の蔡倫(さいりん)が樹皮、麻、破れた布・漁網を用いて「紙」を
作成し孝和帝に差し上げたとか。

後漢書 宦官列伝
自古書契多編以竹簡 其用縑帛者謂之為紙 縑貴而簡重 並不便於人
倫乃造意 用樹皮 麻頭及弊布魚網以為紙 元興元年(105年)奏上之
帝善其能 自是莫不従用焉 故天下咸称蔡侯紙

それ迄、記述用の用いられた竹簡は重く、絹布は高コストで
不便だったがこれ以降「蔡侯紙」を使用するようになったと。
とは云え、この紙は朝廷管理、更に、庶民にはこれでも高価過ぎ利用
できなかった。(一方、文字を書けた方が極少数であったとも) 続く。

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2018年6月23日 (土)

倭人 朝鮮半島で鉄貨幣使用 642

後漢書東夷列伝には
倭国の極南界にある奴国の自ら大夫と名乗る使者が
光武帝の御代57年に後漢王朝の都、洛陽に赴き、お土産を贈呈、
朝賀に参列した。
光武帝は朝賀参列の返礼として印綬(金印・紫綬)を下された。
と記述されています。
奴国のお土産は一体何だったのでしょう?
まさか「鶴乃子」ではないと思いますが、
とても気になるところです。
「奴国」の所在地は偉い学者さんにお任せします。
又、この時に頂いた「金印」が江戸時代、天明の大飢饉中の
1784年志賀島(しかのしま)でお百姓さんにより発見されたと
されています。金印に刻印されている文字は「漢委奴國王」とか。
この信憑性も賢い先生さんに委ねます。
確かに云えるは今から1961年前、
倭の奴国の使者が洛陽へ赴き、光武帝に印綬を授与された事。
印綬の意味するところは華商との商い独占権益者記号。
*華商
他国に住む、中国の商人。(日本国語大辞典)
と云うことは既に、57年以前の時代、
華商と倭人に接点があった事になります。
基本的に「もの」を売りたい商人が買い手に接近する事に。
華商と倭人の接点場所は
華商が海を渡り倭国に上陸、倭人と接触、或いは、
朝鮮半島に住まう華商が朝鮮半島に渡った倭人との接触の二つ。
そして、後の可能性が強いのです。
なぜかと云うと先々週の
「後漢書東夷列伝 韓国関連記述」
「国出鉄 濊倭馬韓並従 巿之凡諸貨易皆以鉄為貨」
このくだりは「辰韓・弁辰」のところでの記述。
国は鉄を出す。濊・倭・馬韓は皆これに従う。
市(場)のおよそ諸々の貨易(商品交換)はみな鉄を以て貨幣となす。
とされています。
倭人、奴国の朝鮮半島出張担当者ら、或いは、以外の倭人が
朝鮮半島に駐在していたのではないかと考えられます。 続く。

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2018年6月16日 (土)

後漢書東夷列伝 倭国関連記述 641

後漢書の倭国関連の記述をピックアップしてみます。

後漢書 光武帝紀(旧漢字は新漢字に改訂)
「二年(57年)春正月辛未 初立北郊 祀后土 東夷倭奴国王遣使奉献」

後漢書 東夷列伝(旧漢字は新漢字に改訂)
「倭在韓東南大海中 依山島為居 凡百余国 自武帝滅朝鮮
  使駅通於漢者三十許国 国皆称王 世世伝統
  其大倭王居邪馬臺(=台)国 楽浪郡徼 去其国万二千里
  去其西北界拘邪韓国七千余里 其地大較在会稽東冶之東
  与朱崖 儋耳相近 故其法俗多同 土宜禾稲 麻紵 蚕桑
  知織績為縑布 出白珠 青玉 其山有丹土 気温鹏 冬夏生菜茹
  無牛馬虎豹羊鵲 其兵有矛楯木弓 竹矢或以骨為鏃
  男子皆黥面文身 以其文左右大小別尊卑之差
  其男衣皆橫幅結束相連 女人被髪屈紒 衣如単被 貫頭而著之
  並以丹朱坋身 如中国之用粉也 有城柵屋室 父母兄弟異処
  唯会同男女無別 飲食以手 而用籩豆 俗皆徒跣 以蹲踞為恭敬
  人性嗜酒 多寿考 至百余歳者甚衆 国多女子 大人皆有四五妻
  其余或両或三 女人不淫不妒 又俗不盗窃 少争訟
  犯法者没其妻子 重者滅其門族 其死停喪十余日 家人哭泣
  不進酒食 而等類就歌舞為楽 灼骨以卜 用決吉凶
  行来度海 令一人不櫛沐 不食肉 不近婦人 名曰持衰
  若在塗吉利 則雇以財物 如病疾遭害 以為持衰不謹 便共殺之
  建武中元二年(57年) 倭奴国奉貢朝賀 使人自称大夫
  倭国之極南界也 光武賜以印綬」

以下、時代が飛びますのでここで終了します。

有り難いことに年号が記載されています。
光武帝紀には
57年東夷の倭奴国王が使いを遣わして奉献した。
東夷列伝では
57年倭奴国が貢を奉って朝賀した。使人は自ら大夫と称した。
倭国の極南界である。光武帝は賜うに印綬を以てした。 続く。

尚、web上では
国立国会図書館 デジタルコレクション
「後漢書 光武帝紀」P101 26行~
「後漢書 東夷列伝」P17 2行~
確認可能ですので是非ご覧下さい。

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2018年6月 9日 (土)

後漢書東夷列伝 韓国関連記述 640 

何かとアジア地域で話題沸騰中のお隣韓国。
後漢書の韓国関連の記述をピックアップしてみます。

後漢書 東夷列伝(旧漢字は新漢字に改訂)
「韓有三種 一曰馬韓 二曰辰韓 三曰弁辰
 馬韓在西 有五十四国 其北与楽浪 南与倭接
 辰韓在東 十有二国 其北与濊貊接
 弁辰在辰韓之南 亦十有二国 其南亦与倭接
 凡七十八国 伯済是其一国焉
 大者万余戸 小者数千家 各在山海間
 地合方四千世里 東西以海為限 皆古之辰国也
 馬韓最大 共立其種為辰王 都月支国 尽王三韓之地
  其諸国王先皆是馬韓種人焉」

「馬韓人知田蚕 作綿布 出大栗如梨 有長尾鶏 尾長五尺
 邑落雑居 亦無城郭 作土室 形如塚 開戸在上 不知跪拝
  無長幼男女之別 不貴金宝錦罽 不知騎乗牛馬 唯重瓔珠
  以綴衣為飾 及県頸垂耳 大率皆魁頭露紒 布袍草履 其人壮勇
  少年有築室作力者 輒以縄貫脊皮 縋以大木 嚾呼為健
  常以五月田竟祭鬼神 昼夜酒会 群聚歌舞
  舞輒数十人相随蹋地為節 十月農功畢 亦復如之
  諸国邑各以一人主祭天神 号為天君 又立蘇塗 建大木以県鈴鼓
  事鬼神 其南界近倭 亦有文身者」

「辰韓,耆老自言秦之亡人 避苦役 適韓国
  馬韓割東界地与之 其名国為邦 弓為弧 賊為寇 行酒為行觴
  相呼為徒 有似秦語 故或名之為秦韓 有城柵屋室 諸小別邑
  各有渠帥 大者名臣智 次有倹側 次有樊秖 次有殺奚 次有邑借
  土地肥美 宜五穀 知蚕桑 作縑布 乗駕牛馬 嫁娶以礼 行者讓路
  国出鉄 濊倭馬韓並従巿之 凡諸貨易 皆以鉄為貨
  俗喜歌舞飲酒鼓瑟 児生欲令其頭扁 皆押之以石
 弁辰与辰韓雑居 城郭衣服皆同 言語風俗有異 其人形皆長大
  美髪 衣服潔清 而刑法厳峻 其国近倭 故頗有文身者
  初 朝鮮王準為衛満所破 乃将其余衆数千人走入海 攻馬韓 破之
  自立為韓王 準後滅絶 馬韓人復自立為辰王 建武二十年(44年)
  韓人廉斯人蘇馬諟等詣楽浪貢献 光武封蘇馬諟為漢廉斯邑君
  使属楽浪郡 四時朝謁 霊帝末 韓濊並盛 郡県不能制 百姓苦乱
  多流亡入韓者 馬韓之西 海島上有州胡国 其人短小 髡頭
  衣韋衣 有上無下 好養牛豚 乗船往来 貨市韓中」

以上が韓国関連の全てになります。
先週お話した事が記載されていますのでご確認下さい。 続く。

尚、web上では
国立国会図書館 デジタルコレクション
「後漢書東夷列伝」P14 14行~
確認可能ですので是非ご覧下さい。

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2018年6月 2日 (土)

光武帝 漢王朝復活 639

A.D.25年10月、漸く劉秀が31歳の御年で漢王朝を復活。
劉秀(B.C.6~57 帝位25~57)は後に「光武帝」と命名されます。
王莽の新王朝が途中でお邪魔したから漢王朝は分かりやすく
日本では「前漢」・「後漢」をされています。
以後、後漢は220年迄表面上続くことになります。
実質、184年「黄巾の乱」勃発後は空中分解状況に陥っています。
この時代頃より後を陳寿(233~297)の描いた「三国志」が
力強くフォローして下さっています。
それはさて置き光武帝時代に戻ると、
彼の時代に「後漢書 光武帝紀・東夷列伝」に於いて
「韓国」・「韓人」、及び、「倭」・「倭奴国」・「倭国」・「倭国王」
と云う記述が登場します。

光武帝紀
「(44年)秋 東夷韓国人 率衆詣 楽浪内附」
44年東夷の韓国の人が衆を率いて楽浪に詣って内附したと。
*内付・・・その国に来てつき従うこと。服属。(日本国語大辞典)

東夷列伝
「建武二十年(44)韓人廉斯人蘇馬諟等 詣楽浪貢献
 光武封蘇馬諟為漢廉斯邑君 使属楽浪郡 四時朝謁」
韓人で廉斯(れんし)の人である蘇馬諟(そばし)らが楽浪に詣って
貢献した。光武帝は蘇馬諟を封じて漢廉斯邑君(かんれんしゆうくん)
とし、楽浪郡に属せしめ、四時(季節毎に)に朝謁せしめたと。
但し、韓国・廉斯とも所在地は全く不明です。
*邑君は市(市場=いちば)長さん

この二つは同じ内容ではないかと思われます。 続く。

*『後漢書』 范曄(はんよう)(398~445)(南朝宋)成立432年以降
 「本紀」10巻、「列伝」80巻、「志」30巻の計120巻
 范曄は本紀と列伝のみ記述

尚、web上では
国立国会図書館 デジタルコレクション
「漢・韓史籍に顕はれたる日韓古代史資料」
「光武帝紀」P12 5行 「東夷列伝」P21 6行
確認可能ですので是非ご覧下さい。

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