« 二つの中国 劉盆子・劉秀帝 637 | トップページ | 光武帝 漢王朝復活 639 »

2018年5月26日 (土)

赤眉蜂起軍 樊崇 花と散る 638

「後漢書 光武帝紀」に依ると
A.D.25年9月
「九月 赤眉入長安 更始奔高陵」
赤眉軍の長安入城は9月とされ、更始帝は長安を脱出、高陵へ。
*高陵・・・どこかは不明、お墓のある所
更始帝はやがて投降、璽綬(=帝位記号)を劉盆子に譲渡。
A.D.25年12月
「赤眉殺更始」
赤眉軍は更始帝を抹殺。

月が戻りますがこの年の10月
「冬十月癸丑 車駕入洛陽 幸南宮却非殿 遂定都焉」
劉秀(後の光武帝)は洛陽へ入城、都とします。

一方、赤眉劉盆子軍団、
どうも劉盆子はリーダーの器を持ち合わせていなかった模様。
都、長安を奪取したにも関わらず
政治を行わず長安の街で強盗・略奪に及ぶ始末。
見かねた劉盆子は皇帝位を投げ出そうとする呈に。
さすがの諸将はこれを留めたとか。
これでは組織の瓦解は致し方ありません。

「赤眉貪財物 復出大掠 城中糧食尽 遂收載珍宝 因大縦火焼宮室
引兵而西 略 赤眉入復長安 止桂宮」(後漢書 劉玄劉盆子列伝)
やがて、長安の食糧が尽きると西方へ赴き、再び長安に戻る顛末。
時の政権打倒を目論む反乱分子軍団は
打倒後の展望を持ち合わせないとこうなる教訓・教示です。
A.D.27年正月
「樊崇乃将盆子及丞相徐宣以下三十余人肉袒降 上所得伝国璽綬」
(劉玄劉盆子列伝)
遂に、赤眉蜂起軍の頭目、樊崇らは力尽き矢折、
劉秀軍に裸体で投降、璽綬を渡す羽目に。
「其夏 樊崇 逢安謀反 誅死」
「帝憐盆子 賞賜甚厚」(劉玄劉盆子列伝)
赤眉軍実質リーダー、樊崇は花と散り、
赤眉軍傀儡リーダー、劉盆子は劉秀の憐憫の情で存命とか。 続く。

|

« 二つの中国 劉盆子・劉秀帝 637 | トップページ | 光武帝 漢王朝復活 639 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 二つの中国 劉盆子・劉秀帝 637 | トップページ | 光武帝 漢王朝復活 639 »