赤眉軍 劉盆子立て更始帝打倒 636
漢書に於いて先週の赤眉軍記述から2年半経過後にやっとお目見え。
「明年(A.D.25)夏 赤眉樊崇等衆数十万人入関 立劉盆子 称尊号
攻更始(帝) 更始(帝)降之 赤眉遂焼長安宮室市里 害更始(帝)」
A.D.25夏 赤眉軍の樊崇らが都、長安にいる更始(帝)殺害した事件。
反乱軍数十万人が函谷関・武関・陸渾関の何れか、或いは、各関を
打ち破り長安に攻め入ったのです。
長安市街も焼き尽くしてしまった模様。
それはさて置き、気になるのは「立劉盆子 称尊号」の記述。
赤眉軍は王莽亡き後、更始帝打倒へ方針転換、緑林軍を見習い、
「劉盆子」と云うお方を皇帝に仕立てた感じ。
前記、漢書王莽伝の続き
「民飢餓相食 死者数十万 長安為虚 城中無人行 宗廟園陵皆発掘
唯霸陵杜陵完 六月世祖即位 然後宗廟社稷復立 天下艾安」
と記されています。
長安市民は極度の飢餓状態で「相食(互いに食す)」する悲惨な状況。
餓死者は数十万人に及んだとか。
長安の街は廃墟と化し、誰もいない街になってしまった感。
又、覇陵・杜陵を除く宗廟・墓園は掘り起こされた様子。
A.D.25/6月劉盆子は正式に「皇帝」として即位。
然る後、宗廟・社稷は再興され、世は平静さを取り戻したとの事。
こうして、A.D.17呂母おばさんが立ち上げた赤眉軍は漸く、都、長安を
落としたのでした。 続く。
| 固定リンク
コメント