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2018年4月21日 (土)

赤眉軍 漢書記述ほんの少々 635

緑林軍らが先に王莽を打倒してしまったのですが、緑林軍に先行、
蜂起した赤眉軍はその間一体何をしていたのでしょう?
残念ながら「漢書 王莽伝」には詳しく記述されていないのです。
赤眉軍一途最初の登場は
「呂母の乱から赤眉軍結集」で紹介した
「是歳(A.D.18) 赤眉力子都樊崇等以飢饉相聚 起於琅邪 転抄掠
 衆皆万数 遣使者発郡国兵撃之 不能克」
次の登場が
「是月(A.D.22/2月) 赤眉殺太師犧仲景尚 関(函谷関)東人相食」
A.D.21年王莽の命に依り赤眉軍制圧に向かった政府軍「景尚」が
赤眉軍より殺害される。又、函谷関より東方は人を食す程、飢餓状態。
次に
「四月(A.D.22/4月) 遣太師王匡更始將軍廉丹東 略
 太師更始合将鋭士十余万人 所過放縦 東方為之語曰
 『寧逢赤眉 不逢太師 太師尚可 更始殺我』卒如田況之言」
A.D.22/4月 東方派遣軍敗北により「太師 王匡」・「更始将軍 廉丹」
を長として赤眉軍殲滅部隊を派遣 略 
この派遣軍は遠征途中、「放縦」(勝手気ままに振る舞い三昧)、
それに依り函谷関以東に住まう方は
「赤眉軍遭遇は大丈夫、王匡軍には決して遭遇するな。
 嫌々、王匡軍はまだ良い、廉丹軍に遭遇したら殺害される」と。
次に
「赤眉別校董憲等衆数万人在梁郡 王匡欲進撃之
 廉丹以為新抜城罷労 当且休士養威 (王)匡不聴 引兵独進
 (廉)丹隨之 合戦成昌 兵敗 (王)匡走
 (廉)丹使吏持其印韍符節付(王)匡曰
 『小兒可走 吾不可』 遂止 戦死」
董憲・・・廉丹を討ち破った赤眉軍の猛将
梁郡・・・現在の河南省東部と安徽省北部にまたがる地域
成昌・・・位置不明
A.D.22冬 赤眉軍別動部隊の将軍、董憲らは兵士数万人を擁し「梁郡」
に存在。王匡は彼らを殲滅しようと進撃しようと考えるも、廉丹は兵士
の休息優先と考え王匡の策には耳を傾けなかった。
然るに王匡は自分の部隊だけで赤眉軍別動部隊に向けて進軍、
廉丹はしぶしぶ王匡部隊の後に随った。
「成昌」で赤眉軍と合戦、先方王匡部隊は敗戦、王匡は敗走。
後詰め部隊の廉丹は状況を察知、官吏に自分の「印韍・符節」を
持たせ「子供は去れ、吾は留まる」と伝言せよと王匡の元へ走らせた。
留まった廉丹部隊は赤眉軍に粉砕され廉丹は戦死とか。

この後赤眉軍、及び、頭目の樊崇に関する記述は
2年半も何故か無視され、蹴っ飛ばされるのです。
たぶん、王莽を直接打倒しなかったからとは思われますが? 続く。

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2018年4月14日 (土)

王莽23年間トップ本望を遂げる 634

「(A.D.23)四月世祖與王常等別攻潁川 下昆陽郾定陵」
潁川・・・潁川(えいせん)郡 河南省中部地区
昆陽・郾・定陵は潁川郡内の県(都市)

劉玄・王常軍は潁川郡も侵略、平定。
これに対し王莽軍は反乱軍を攻撃するも反撃を食らい敢えなく敗退。
勢い、劉玄軍は王莽が籠もる首都、長安を目指し進軍。

「十月戊申朔(A.D.23/10/1) 兵従宣平城門入 民間所謂都門也」
ついに、劉玄軍は長安城の「平城門=都門」を破り城内へ侵入。

「三日庚戌(A.D.23/10/3) 略 商人杜呉殺(王)莽 取其綬」
そして、王莽は殺害されてしまいます。それも軍人ではなく商人に。
商人の名は「杜呉」、王莽から「綬」を奪っています。
きっと以て高く売りつけたのでしょう?
王莽、享年68歳。
B.C.01 大司馬復帰(45歳)
A.D.04 宰衡(=宰相)(49歳)
A.D.06 摂皇帝(仮皇帝)(51歳)
A.D.08 皇帝(53歳)
A.D.23 他界(68歳)
大司馬復帰より23年間、実質中国のトップに君臨し、
人生を謳歌した王莽さん、本望を遂げられた考えます。
彼の功績は儒者、及び、儒教主義達の為に官営学舎を設立した事。
この時代、エッジーな科学的儒教主義官吏達が活躍。
「儒教」が後の世に影響力を与える結果になった礎。

「(更始)二年(A.D.24)二月 更始(帝)到長安 下詔大赦」
翌年、2月更始帝(=劉玄)は長安に到着、大赦公布。
緑林軍らはとうとう長安を押さえてしまったのです。
ところが、王莽打倒にわか組織軍、
それ故、打倒後の展望を持ち合わせなかった為、
内部分裂が発生、時を経ず瓦解の道を辿る事になるのです。
因みに緑林軍・新巿軍・平林軍・舂陵軍を組織した劉伯升はA.D.23
既に内ゲバにより殺害されています。
(これらは歴史経緯を知っているから云えるのですが・・・。)
 続く。

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2018年4月 7日 (土)

二つの中国 王莽・劉玄帝 633

漢王朝復活を目指す劉伯升は南陽郡舂陵で挙兵したので舂陵軍とも。
劉伯升は前漢第六代皇帝
「景帝(B.C.188~B.C.141 在位B.C.157~B.C.141)」の末裔と。
景帝の息子は前漢第七代皇帝「武帝」。
尚、武帝については
「漢帝国成立 劉邦 武帝 司馬遷」
「司馬遷 郎中・太史・中書令 史記成立」
「戦乱中 商人(華商)・難民避難」 でご確認を。
又、「三国志」でメジャーな「劉備(玄徳)(161~223)」は
なな、何と、劉伯升の末裔に当たるとの事です。
劉伯升(舂陵軍)は
緑林軍の王常(下江兵)・新巿軍の朱鮪・平林軍の陳牧らを
組織し王莽政権打倒を企図した功労者。
彼がリーダーになると思いしや、

「漢兵乗勝遂圍宛城 初世祖族兄聖公先在平林兵中
 三月辛巳朔 平林新巿下江兵將王常朱鮪等共立聖公為帝
 改年為更始元年 拝置百官」

「漢兵」は劉伯升が組織した王莽政権打倒軍。
この軍団が勝利に乗じ遂に「宛城」を包囲する迄に。
宛・・・南陽郡の県(都市)、現在の河南省南陽市
平林軍陣中に「世祖族兄聖公(=劉玄)」が存在したのです。
彼は劉伯升と同じく景帝の末裔でこの世代では年長者だったとか。
これ故、劉伯升は彼にリーダー位を譲る事に。しかして
A.D.23/3/1 劉聖公(=劉玄)は反乱軍頭目達に推挙され「皇帝」に。
年を改め、元号を「更始」とし、官僚を組織した模様。
未だ、王莽を倒していないのに
勝手に?「皇帝」と名乗って良いのかしら
これにて二つの中国が存在した事に。
二つの中国ってこの時代からあったのですね。
*「中国」と云う固有名詞は時代により「意味合い」が異なります。
それについては追って。 続く。

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