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2018年4月 7日 (土)

二つの中国 王莽・劉玄帝 633

漢王朝復活を目指す劉伯升は南陽郡舂陵で挙兵したので舂陵軍とも。
劉伯升は前漢第六代皇帝
「景帝(B.C.188~B.C.141 在位B.C.157~B.C.141)」の末裔と。
景帝の息子は前漢第七代皇帝「武帝」。
尚、武帝については
「漢帝国成立 劉邦 武帝 司馬遷」
「司馬遷 郎中・太史・中書令 史記成立」
「戦乱中 商人(華商)・難民避難」 でご確認を。
又、「三国志」でメジャーな「劉備(玄徳)(161~223)」は
なな、何と、劉伯升の末裔に当たるとの事です。
劉伯升(舂陵軍)は
緑林軍の王常(下江兵)・新巿軍の朱鮪・平林軍の陳牧らを
組織し王莽政権打倒を企図した功労者。
彼がリーダーになると思いしや、

「漢兵乗勝遂圍宛城 初世祖族兄聖公先在平林兵中
 三月辛巳朔 平林新巿下江兵將王常朱鮪等共立聖公為帝
 改年為更始元年 拝置百官」

「漢兵」は劉伯升が組織した王莽政権打倒軍。
この軍団が勝利に乗じ遂に「宛城」を包囲する迄に。
宛・・・南陽郡の県(都市)、現在の河南省南陽市
平林軍陣中に「世祖族兄聖公(=劉玄)」が存在したのです。
彼は劉伯升と同じく景帝の末裔でこの世代では年長者だったとか。
これ故、劉伯升は彼にリーダー位を譲る事に。しかして
A.D.23/3/1 劉聖公(=劉玄)は反乱軍頭目達に推挙され「皇帝」に。
年を改め、元号を「更始」とし、官僚を組織した模様。
未だ、王莽を倒していないのに
勝手に?「皇帝」と名乗って良いのかしら
これにて二つの中国が存在した事に。
二つの中国ってこの時代からあったのですね。
* 「中国」と云う固有名詞は時代により「意味合い」が異なります。
それについては追って。 続く。

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