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2018年4月14日 (土)

王莽23年間トップ本望を遂げる 634

「(A.D.23)四月世祖與王常等別攻潁川 下昆陽郾定陵」
潁川・・・潁川(えいせん)郡 河南省中部地区
昆陽・郾・定陵は潁川郡内の県(都市)

劉玄・王常軍は潁川郡も侵略、平定。
これに対し王莽軍は反乱軍を攻撃するも反撃を食らい敢えなく敗退。
勢い、劉玄軍は王莽が籠もる首都、長安を目指し進軍。

「十月戊申朔(A.D.23/10/1) 兵従宣平城門入 民間所謂都門也」
ついに、劉玄軍は長安城の「平城門=都門」を破り城内へ侵入。

「三日庚戌(A.D.23/10/3) 略 商人杜呉殺(王)莽 取其綬」
そして、王莽は殺害されてしまいます。それも軍人ではなく商人に。
商人の名は「杜呉」、王莽から「綬」を奪っています。
きっと以て高く売りつけたのでしょう?
王莽、享年68歳。
B.C.01 大司馬復帰(45歳)
A.D.04 宰衡(=宰相)(49歳)
A.D.06 摂皇帝(仮皇帝)(51歳)
A.D.08 皇帝(53歳)
A.D.23 他界(68歳)
大司馬復帰より23年間、実質中国のトップに君臨し、
人生を謳歌した王莽さん、本望を遂げられた考えます。
彼の功績は儒者、及び、儒教主義達の為に官営学舎を設立した事。
この時代、エッジーな科学的儒教主義官吏達が活躍。
「儒教」が後の世に影響力を与える結果になった礎。

「(更始)二年(A.D.24)二月 更始(帝)到長安 下詔大赦」
翌年、2月更始帝(=劉玄)は長安に到着、大赦公布。
緑林軍らはとうとう長安を押さえてしまったのです。
ところが、王莽打倒にわか組織軍、
それ故、打倒後の展望を持ち合わせなかった為、
内部分裂が発生、時を経ず瓦解の道を辿る事になるのです。
因みに緑林軍・新巿軍・平林軍・舂陵軍を組織した劉伯升はA.D.23
既に内ゲバにより殺害されています。
(これらは歴史経緯を知っているから云えるのですが・・・。)
 続く。

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