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2018年3月31日 (土)

赤眉軍に触発され緑林軍決起 632

赤眉軍の蜂起に対し長安の東南でも決起部隊が出現。
A.D.20
「南郡張霸江夏羊牧王匡等 起雲杜緑林 号曰下江兵 衆皆万余人」
(漢書 王莽伝)以後「」は漢書 王莽伝
南郡・・・現在の湖北省荊州市にあった郡
江夏・・・現在の湖北省東部にあった郡
雲杜・・・江夏郡にあった県
緑林・・・緑林山(現在の湖北省宜昌市当陽市)

「下江兵盛 新巿朱鮪 平林陳牧等 皆復聚衆 攻撃郷聚」

長安から南、今の湖北省で反乱を起こした下江兵(軍)(=緑林軍)。
(緑林山に立て籠もり政府軍と対置した事から緑林軍と)
新巿・・・下江兵(=緑林軍)の分派隊で新巿軍とも、朱鮪が頭目
平林・・・漢書では説明なし、南陽郡平林県で陳牧が頭目の決起軍
    平林軍とも。後に新巿軍に合流
    南陽郡は現在の河南省南陽市と湖北省随州市・棗陽市一体
    平林県の場所は不明
各軍は周りの郷・聚落を攻撃・略奪に及んでいた模様。
赤眉軍・緑林軍、何やら補色を思わせる命名では?
この二つの決起・蜂起軍について漢書の記述は

「四年(A.D.23)正月 漢兵得下江王常等以為助兵 撃前隊大夫甄阜
 属正梁丘賜 皆斬之 殺其衆数万人」
「及後漢兵劉伯升起 皆称将軍 攻城略地 既殺甄阜 移書称説
  莽聞之憂懼」
漢兵・・・漢王朝復活を目指す劉伯升を頭目とする軍
王常・・・下江兵(軍)(=緑林軍)の頭目

劉伯升は下江兵(軍)(=緑林軍)の援軍を得て、
甄阜(南陽郡太守<郡長官>)・梁丘賜(南陽郡都尉<郡軍事長官>)
及び、南陽郡兵士数万人を殺害したとか。
王莽は長安でその報に接し、憂い懼(おそ)れた模様。 続く。

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2018年3月24日 (土)

呂母の乱から赤眉軍結集 631

長年に渡る地球寒冷化現象の影響により
翌年、A.D.17生活苦の民衆が徒党を組み盗賊への道を歩む事に。

「臨淮瓜田儀等為盗賊 依阻会稽長州
 琅邪女子呂母亦起 初呂母子為県吏 為宰所冤殺 母散家財
 以酤酒買兵弩 陰厚貧窮少年 得百余人 遂攻海曲県 
 殺其宰以祭子墓 引兵入海 其衆浸多後皆万数」
 (漢書 王莽伝)以後「」は漢書 王莽伝
臨淮(りんわい)・・・現在の江蘇省
会稽(かいけい)・・・会稽山 浙江省紹興市南部に位置する山
琅邪(ろうや)・・・現在の山東省東南部と江蘇省東北部
海曲県(かいきょくけん)・・・現在の山東省日照市 黄海に面す

瓜田儀等は会稽で呂母、及び、彼女に付き従う若人は海曲で叛旗。
呂母おばさんの反乱は詳しく語られています。
彼女の息子さんが海曲県官吏に冤罪で抹殺された事に対し、
酒屋さんの呂母おばさんは資材を投げ打ち、生活苦の若人を援助、
又、酒売上金で武器を購入、呂母は若人達と海曲県役所を攻撃、
目出度く県長官を誅殺、長官首を息子の墓へ供え本懐を遂げた。
更に若人達引き連れ黄海へ向かうと呂母おばさん達に共感した民衆が
一万人を超えたとか。(通称、呂母の乱)
翌年、A.D.18呂母の乱に触発、誘発されたのか
又々、琅邪で反乱軍が決起・蜂起します。

「是歳 赤眉力子都樊崇等以飢饉相聚 起於琅邪 転抄掠 衆皆万数
 遣使者発郡国兵撃之 不能克」

力子都樊崇等が重なる飢饉に耐えられず集結、
琅邪で略奪行為に及び結集数は数万人になった模様。
王莽は使者を遣わし郡国兵を集結させ、
彼らを攻撃するも撃破することができなかったとの事。
赤眉は蜂起軍が郡国兵と見間違えないために眉を赤く染めた事から。
この蜂起軍部隊に呂母の乱に参加した反乱分子も参加したとか。
(この反乱軍は通称、赤眉軍と)
重装備郡国兵が軽装備赤眉軍に勝てなかったのは決死差の違いか?
何れせよ革命は辺境の地から。 続く。

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2018年3月17日 (土)

王政君崩御 地球寒冷化? 630

A.D.08王莽(53歳)は皇帝位禅譲と云う形を取り皇帝に。
実際は王莽による皇帝位簒奪の成功。(「新」王朝<A.D.8~23>)
ここに人身掌握に長け権謀術数を巡らした王莽は念願の最高位獲得。
この王莽の皇帝位簒奪に荷担したのは新しい世を望む
エッジーな科学的儒教主義官吏達だったのです。
偽善予言書まで作成したお方もいらっしゃったそうな。
王莽にとっては「我が世の春」を迎えます。
科学的儒教主義官吏達により帝位に祭り上げられた王莽は
遙か昔、周時代(西周の周公旦)を理想とし儒教主義政治改革を
断行します。
皇帝を神の代理とし天地の中心となし天下を治める改革は非現実的で
やがて民の不平不満を募らせます。
理想を求め、現実(現場)を直視しない政策は破綻すること必定。
王莽、皇帝になって5年後
長期間に渡り王莽の後ろ盾を担った叔母、王政君=元皇后
A.D.13/5月に崩御してしまいます。(月文母皇太后とても長命享年84歳)
A.D.13/11月20日余り彗星が出現したとか。
「十一月彗星出二十余日不見」(漢書 王莽伝)以後「」は漢書 王莽伝
A.D.14/1月改元に伴い恩赦「天鳳元年正月赦天下」
A.D.14/3月末日食により大恩赦
「三月壬申晦日有食之大赦天下」
A.D.14/4月初夏に霜が降りる
A.D.14/6月晩夏に黄色い霧が発生
A.D.14/7月初秋に大風・雹(ひょう)が降る
「四月隕霜殺屮木海瀕尤甚六月黄霧四塞
 七月大風拔樹飛北闕直城門屋瓦雨雹殺牛羊」
これだけ異常現象・天候不純が立て続けに起きると
かの時代人心不安に陥り王莽の「徳」が疑われる事に。
「君の名は」を思わせる「彗星」、地球寒冷化だったのかしら
A.D.15/2月日中に星が見えた?とか。
「二年二月置酒王路堂公卿大夫皆佐酒大赦天下
 是時日中見星」
A.D.16/2月春に地震・大雨雪が降る
「三年二月乙酉地震大雨雪関東尤甚深者一丈竹柏或枯」
*関東・・・この時代は函谷関より東側
A.D.16/7月長安城の門の一つが罹災 7/末日食により大恩赦
「七月辛酉霸城門災民間所謂青門也 戊子晦日有食之大赦天下」
王政君=元皇后の崩御後、なぜか地球寒冷化現象が頻発、
これにより農産物生産・収穫に甚だ支障を来す状況へ。 続く。

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2018年3月10日 (土)

王莽 大司馬~摂皇帝に 629

元帝の奥様で成帝の母、王政君(王莽の叔母)。(とても長寿なお方)
元帝(B.C.74~B.C.33 在位B.C.48~B.C.33)
王政君(B.C.71~A.D.13 皇后・皇太后・太皇太后B.C.48~B.C.13)
 成帝(B.C.51~B.C.07 在位B.C.33~B.C.07)
 許皇后(?~B.C.08)(皇后位B.C.18迄)
 趙飛燕(?~B.C.01)(皇后・皇太后位B.C.16~B.C.01)
 趙合徳(?~B.C.07)(昭儀=皇帝側室号)
彼女が皇后になったお陰で王一族は「外戚」に。
政治の実権は王一族が握る事になります。血縁はいつの世も・・・。
王政君の兄弟の王鳳(?~B.C.22)は成帝の後見役。
その王鳳が死に際し、甥っ子の王莽(おうもう)に後を託します。
王莽(B.C.45~A.D.23)は父を早くになくした為、
伯母の恩恵を受けられず、勉学に勤しんだ感じ。
しかし、王鳳が彼の何かを見込んだのでしょう。
以後、伯母、叔父のサポートを受け、
B.C.08には「大司馬」(王莽38歳)に昇進。
*大司馬・・・中国古代の官名。周代、六官の一つで夏官の長。
 軍事や運輸をつかさどる。漢代には、大司徒・大司空と共に
 三公に列せられ、中央政府の最高官となる。しかし、
翌年、成帝が崩御。成帝の異母弟、劉康(?~23)の子が帝に。
成帝にはなぜかお子さんが存在しません。愛憎事で殺害されたとか?
B.C.07哀帝(B.C.25~B.C.01在位B.C.07~B.C.01)即位 元帝の孫
これにより、王莽は大司馬の職を失う。
ところが、7年後、哀帝は突如25歳にして崩御。
B.C.01平帝(B.C.09~A.D.05在位B.C.01~A.D.05)即位 元帝の孫
王莽(45歳)は大司馬に復帰。
A.D.04王莽のお嬢さんが皇后に 王皇后(B.C.09~A.D.23)
王莽(49歳)は「宰衡(=宰相)」に。
又、この年「莽奏起明堂辟雍霊台 為学者築舍万区」(漢書 王莽伝)
儒者、及び、儒教主義の為に広大な学び舎を建設。
ところが、ところが、翌年(A.D.05/12月)、平帝は14歳で崩御。
A.D.06/03月劉嬰を皇太子(孺子嬰<じゅしえい>)(A.D.05~A.D.25)に。
(「三月己丑、立宣帝玄孫嬰為皇太子、号曰孺子」
 孺子は宣帝の玄孫に当たるお方 <漢書 王莽伝>)
王莽(51歳)は2歳皇帝の「摂皇帝(仮皇帝)」として
朝廷のトップに君臨。  
A.D.07/9月東郡太守翟義(てきぎ)が乱を起こすも王莽軍が鎮圧。
続く。

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2018年3月 3日 (土)

前漢末 儒教一世風靡 628

楽浪海中有倭人と「漢書 地理志」に記載された時代の中国王朝は
元帝(B.C.74~B.C.33 在位B.C.48~B.C.33)
成帝(B.C.51~B.C.07 在位B.C.33~B.C.07)母は王政君(王莽の叔母)
元帝は大の「儒教」好きで父の
宣帝(B.C.91~B.C.48 在位B.C.74~B.C.48)に
「我が家を乱すものは太子(儒教好き元帝)なり」と嘆かせたとか。
この時期の儒教は神秘的災異(神の災い)思想が流行。
元帝はそれにどっぷり填まった模様。
注 儒教と儒家(者)とは異なります。
前漢末に「儒教」が一世風靡したのです。
今の山東省南西部の町、曲阜(きょくふ)=孔子生誕地に
教団本部があり、彼の地で勉学に励み官吏に登用された信者の寄進
により成り立っていた教団。
戦争がない太平の世が長く続いた為、
彼らにも下級・中級官吏の道が開け、
更に、前漢最末期には高級官吏になる者も現れたとか。
そして、この儒教が政変に大きく関わる事となるのです。
日本に於ける「仁・義・礼・智・信」を重んじる「儒学」とは全く異なり
かの時代の「儒教」は天文(暦)・数学を取り入れ、
先端を走る・エッジーな科学的儒教主義の呈だったとか。
武帝時代、天人相関説を唱え儒家思想を国学とするよう武帝に提案
した董仲舒の災異説を発展?させた「讖緯(しんい)説」が流行。

*天人相関説・・・自然現象と人間は相互影響があると云う思想
*讖緯説・・・陰陽五行説・日月五星の運行などにより未来を占う術
(日本国語大辞典 精選版)

未来予想はロマン溢れますが未来予言は胡散臭さが漂います。
未来託宣はとても非科学的と思われますが、
それは現代に生きとし生けるものの下世話な考え、
かの時代、
文字を読み書きできる人はほんの一握りのお方だけだったのですもの
儒教主義の方々をとっても「凄い」と思われたのでしょう? 続く。

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