呂母の乱から赤眉軍結集 631
長年に渡る地球寒冷化現象の影響により
翌年、A.D.17生活苦の民衆が徒党を組み盗賊への道を歩む事に。
「臨淮瓜田儀等為盗賊 依阻会稽長州
琅邪女子呂母亦起 初呂母子為県吏 為宰所冤殺 母散家財
以酤酒買兵弩 陰厚貧窮少年 得百余人 遂攻海曲県
殺其宰以祭子墓 引兵入海 其衆浸多後皆万数」
(漢書 王莽伝)以後「」は漢書 王莽伝
臨淮(りんわい)・・・現在の江蘇省
会稽(かいけい)・・・会稽山 浙江省紹興市南部に位置する山
琅邪(ろうや)・・・現在の山東省東南部と江蘇省東北部
海曲県(かいきょくけん)・・・現在の山東省日照市 黄海に面す
瓜田儀等は会稽で呂母、及び、彼女に付き従う若人は海曲で叛旗。
呂母おばさんの反乱は詳しく語られています。
彼女の息子さんが海曲県官吏に冤罪で抹殺された事に対し、
酒屋さんの呂母おばさんは資材を投げ打ち、生活苦の若人を援助、
又、酒売上金で武器を購入、呂母は若人達と海曲県役所を攻撃、
目出度く県長官を誅殺、長官首を息子の墓へ供え本懐を遂げた。
更に若人達引き連れ黄海へ向かうと呂母おばさん達に共感した民衆が
一万人を超えたとか。(通称、呂母の乱)
翌年、A.D.18呂母の乱に触発、誘発されたのか
又々、琅邪で反乱軍が決起・蜂起します。
「是歳 赤眉力子都樊崇等以飢饉相聚 起於琅邪 転抄掠 衆皆万数
遣使者発郡国兵撃之 不能克」
力子都樊崇等が重なる飢饉に耐えられず集結、
琅邪で略奪行為に及び結集数は数万人になった模様。
王莽は使者を遣わし郡国兵を集結させ、
彼らを攻撃するも撃破することができなかったとの事。
赤眉は蜂起軍が郡国兵と見間違えないために眉を赤く染めた事から。
この蜂起軍部隊に呂母の乱に参加した反乱分子も参加したとか。
(この反乱軍は通称、赤眉軍と)
重装備郡国兵が軽装備赤眉軍に勝てなかったのは決死差の違いか?
何れせよ革命は辺境の地から。 続く。
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