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2017年12月 9日 (土)

司馬遷 郎中・太史・中書令 史記成立 625

司馬遷は洛陽近郊、竜門山西南夏陽生まれと云われています。
建元元年(B.C.140)「儒教」を政治の根本にするよう提案し採用された
董仲舒(とうちゅうじょ)(B.C.176?~ B.C.104?)、
五経博士(五経=「易」「書」「詩」「礼」「春秋」)の
孔安国(こう あんこく)(?~?)(孔子<B.C.552~B.C.479>の末裔)に
司馬遷は幼い頃、教えを乞うたそうです。(父、司馬談のお薦め)
(司馬談<?~B.C.110>)
又、若かりし時、名所旧跡を訪ね、方々へ旅をしたそうです。
武帝の皇帝外出時随行員(郎中)を勤めた際も武帝に付き従い
各地域を見聞できる機会が得られた模様。
郎中を長く過ごした後、漢が南越国(四川雲南地域)を制圧した
後に宣撫も兼ね視察に赴いています。
司馬談の他界後、(B.C.110)
父の役職であった「太史令」の官職を仰せつかります。(B.C.108)
取り急ぎは「暦」編纂に参画。(B.C.104「太初暦」完成)
そして、いよいよ史記編纂に取りかかります。
ところが、武帝と「匈奴(モンゴルを中心とする遊牧民)」との関係が
再び不仲に陥ります。
B.C.99に武帝は匈奴制圧を決定、
李広利将軍(武帝の兄)に3万の兵士を与え制圧命令を下知。
この際、武帝は騎都尉(近衛兵<羽林>監督官)の「李陵」(?~B.C.74)
に制圧軍の兵器・食糧補給担当を命じます。しかし、
李陵はこの命に応じず、独立制圧軍を志願し認められます。
但し、この独立制圧軍の兵士は僅か0.5万のみ。
両隊は匈奴制圧に別ルートで進軍します。
迎える匈奴単于(頭目)率いる部隊は3万。
制圧軍本体と同数の部隊ですから勝敗は時の運。
しかしながら、匈奴単于部隊は李陵独立制圧軍と最初に遭遇。
数に勝る匈奴軍は李陵軍を包囲、ここぞとばかり攻撃。
数に劣る李陵軍は勅命を違えた出陣故、背水の陣にて必死の反撃。
これが功を奏し0.5万李陵軍は匈奴軍1万を殲滅。
出鼻を挫かれた匈奴軍は一旦退却、李陵軍は勝利を得たのです。
この報を受けた武帝は大喜び、李陵を讃えます。
不覚を取った匈奴軍は体制を立て直し、今度は8万の部隊を編成、
李陵軍殲滅に挑みます。
こうなると多勢に無勢な李陵軍、奮戦するも弓折れ矢尽き
撤退を余儀なくされます。
しかし、程なく李陵は捕獲され自刃せず匈奴軍に投降。
漢の回し者ではないですが、制圧軍本体は一体何処で何を?
とても不可解ですが矛を収めます。
この結果に武帝は怒り心頭。
李陵への非難が集中、更に李陵が匈奴軍に戦術指南をしているとの
フェイク情報がもたらされ武帝は李陵一族を抹殺。
李陵非難の真っ只中、彼を擁護したのは司馬遷一人とか。
これにより司馬遷は武帝のご機嫌を損ね牢屋へ。
そして、司馬遷はなぜか死罪に決定。
死罪から逃れるのは「大枚献金」or「宮刑」のいずれかとか。
宮刑は男性のとても大事な所をカットされる刑。
お金のない司馬遷は史記編纂継続の為、宮刑を選択。(B.C.98)
カットされとても痛い思いをしながらも牢獄で史記の構想展開へ。
時が流れ、B.C.96年、運良く恩赦で牢から解放され、
赦免後、司馬遷のたゆまない努力が買われたのか「中書令」の職に。
中書令は内廷(後宮など宮廷の皇帝の私的な部分)の秘書長官。
本来は去勢した「宦官」が担う職。
屈辱の司馬遷ですが
ラッキーにも宮廷の木簡書を自由に見る事が可能になったのです。
以後、司馬遷はB.C.95~B.C.93武帝に従い各地方視察に同行しながら
も執筆作業(木簡記述)に勤しむ日々。
やがて、130巻に及ぶ「太史公書=史記」が執筆完了、史記成立。
B.C.91頃とされています。

130巻内訳

本紀 12巻 皇帝(帝王)の事績録
列伝 70巻 皇帝に関わった人物伝 ex孫子呉起列伝 呂不韋列伝
世家 30巻 列国諸侯等、世襲家柄の記録 ex陳渉世家(陳勝・呉広)
10巻 年表等 ex十二諸侯年表
  8巻 礼 楽 律 暦 天官 封禅 河渠 平準

本紀12巻内訳は
五帝 夏 殷 周 秦 秦始皇 項羽 高祖 呂太后 孝文 孝景 孝武

但し、本紀の孝景(景帝) 孝武(武帝)を含め10巻がタイトルのみ
だったと。(「漢書 司馬遷伝」を記した班固<A.D.32~92>の情報)
尚、司馬遷(太史公書=史記)が素敵と思うところは
「本紀」(=皇帝<帝王>の伝記)に「項羽(西楚覇王)」を列挙した事。
基本的に「秦打倒」に至ったのは項羽の力量に依るところが大。

ここでお断りさせて頂きます。

「太史公書=史記」は決して「中国の歴史書」ではなく、
「皇帝(帝王)、及び、皇帝関連人物の事跡・顛末物語」
です。

ここの所、呉々もご注意下さいませ。 続く。

今年も一年ご覧頂きまして有難うございました。
わたくしども ZIPANGU は冬休みを頂きます。
皆様におかれましては良いお年をお迎え下さい。

来年も乞うご期待。 それではご機嫌よう。

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