漢帝国成立 劉邦 武帝 司馬遷 624
B.C.202 項羽の自害により、
劉邦は「皇帝」に。
首都は「洛陽」 B.C.201「長安(現在の西安)」へ遷都。
秦の郡県制⇒郡国制(分封建国制)へ。
B.C.195 劉邦他界
劉邦に始まり、影響下に置かれた領域を「漢」と後に命名。
「漢」は元、「漢水」流域で、劉邦が
西楚の覇王、項羽により封建されたその「漢水中流(漢中)」地域から。
項羽に分け与えられ年がB.C.206により
「漢」のスタートは「B.C.206」とされている。
「漢」の滅亡は「AD.220」。
この間、「AD.8~23」クーデターが生じ政権を奪われるも
奪還し直し凡そ410年におよび存続。
クーデター以前を「前漢」、以後を「後漢」と。
これまでの秦の始皇帝~項羽~劉邦に至る情報はすべからく、
司馬遷(しばせん)が記述した「太史公書(後に『史記』)」のお陰。
(史記は「史=司馬遷」が「記」す。)
司馬遷(B.C.145?or B.C.135?~B.C.87?orB.C.86?)。
上記の如く、貴重な「歴史書」を残して下さった司馬遷の生没年は
残念ですが不明なのです。
*太史 国史編纂、宮廷記録、天文・暦法を司る役職の長
彼の生きた時代の皇帝は「孝武皇帝(=武帝)(諡号)」。
武帝(B.C.156~B.C87)(在位B.C.141~B.C87)。55年の長期間在位。
司馬遷は当初、郎中(皇帝外出時随行員等々)になり、
武帝の影響が及ぶ各地域見回りに付き従ったとか。
以前紹介した「戦いに巧みな蛇、率然が住む常山」
関連でお話しした
「東方を司る山で『封禅』が執り行われる東岳泰山」
にも出向いたとの事。
*封禅
中国古代に天子が泰山で行なった祭礼で、山上に土壇をつくって
天をまつることと、山の下で地を祓い清めて山川をまつること。
(日本国語大辞典 精選版 小学館)
B.C.108「太史」に任命され、B.C.104には「太初暦」編纂に参画。
(太初暦の太初は「元号」、B.C.104=太初元年 暦制定による改元)
*太初暦
既存の10月年始を正月(1月=立春月)年始に変更
閏年を中気を含まない月(歳中置閏法)に変更
尚、歳中置閏法の詳細は「二十四節気とは?」(国立天文台)
「暦の二十四節気」(ZIPANGU)
「置閏法と定気法」(国立天文台)でご確認下さい。
又、B.C.140に初めて「元号」が制定され「建元」と命名されました。
続く。
| 固定リンク
コメント