« 2017年10月 | トップページ | 2017年12月 »

2017年11月25日 (土)

捲土重来 項羽(杜牧 哀惜)3 623

兵法家、及び、詩人である杜牧は項羽の死を哀れみ惜しみました。
兵法家でも「戦の勝敗」は判断ができかねるとの事。
孫子兵法では多勢に無勢の際は「逃げの一手」です。
魏武帝註孫子 謀攻第三でこれが記されています。

前略
用兵之法
十則圍之
五則攻之
倍則分之
敵則能戰之
少則能逃之
不若則能避之
故小敵之堅
大敵之擒也
後略                  

魏武帝註孫子の原文はこちらでご確認下さい。
国立国会図書館 電子図書館蔵書 「魏武帝註孫子」 9行)

少則能逃之
(味方の兵が)少なければ則ち能<よ>く之(敵)より逃<のが>る

項羽は孫子兵法もさることながら当然、
再起を図る為、逃げに逃げまくったのです。
でなければ、長江を渡り故郷、楚へ帰るべく烏江亭を目指しません。
結果的に、項羽は長江を渡らず自害の道を選びます。
この項羽の選択に対し
杜牧は「羞を包み恥を忍ぶは是れ男児(男の中の男)」と
言い放っています。
しかしながら、「史記 項羽本紀」で、司馬遷は言い伝えをそのまま
表現したのか、或いは彼の想像・創造かは置いといて
項羽は自分に従い参戦奮闘した江東の若者達8,000人の大部分を
死に至らしてしまった事に対し、
「独り心に愧じざらんや」
=「自らの罪を感じ、彼らの親・兄に対し合わせる顔がない心持ち」
と記しているのです。
司馬遷の記述は項羽の罪悪感を「愧じ」としているのであっって
杜牧が詩情した「羞を包み恥を忍ぶ」の「羞」・「恥」とする、
世間が項羽のなした事象を否定的に捉えた結果としての「羞恥」とは決して表現していません。
豪傑で勇猛果敢な項羽は
秦帝国を滅ぼし、結果的に束の間ですが天下を手中にしました。
この云い方も「歴史の結末」を知り得ているからになりますが。
項羽の気持ちを慮るに
烏江亭長の「お節介な進言」に「是れ男児(男の中の男)」を
表出せざる得なかったのです。
この男気は「負の男気(任侠気質)」に当たります。
(負の男気=義の為に命を惜しまない振る舞い)
決して、杜牧が指摘した「羞恥」とは全く異なります。
もし、項羽が「勝ち戦」のみを目途とする冷徹な将軍であるなら
羞を包み恥を忍んで長江を渡ったやも知れません?
しかしながら、彼はそうしませんでした。
又、彼には江東の若者達を無くしてしまった事もさることながら
愛する虞美人を死に追いやった負い目も感じていたのです。
遊び人であった杜牧には嫌でもそこの所は解った筈。
杜牧に哀惜して欲しかったのは「烏江亭長の深謀遠慮の無さ」です。
豪快な男が垣間見せる「優しい人間味」に女性はキュンとするもの!
  続く。

| | コメント (0)

2017年11月18日 (土)

捲土重来 項羽(杜牧 哀惜)2 622

ここで、「史記 項羽本紀」を確認してみます。

且籍與江東子弟八千人渡江而西
今無一人還
縦江東父兄憐而王我
我何面目見之
縦彼不言
籍獨不於心乎
(史記 項羽本紀原文 烏江)

訓読してみます。

且つ籍(項羽)は江東の子弟八千人と江を渡りて西せしも
今一人の還るもの無し
縦(たと)え江東の父兄憐れみて我を王とするも
我何の面目ありてかこれに見(まみ)えん
縦え彼言わずとも
籍独り心にじざらんや

そしてZIPANGU風、訳は

「以前私は江東の若者達8,000人を引き連れこの長江を渡り西へ進軍。
 しかしながら、今、彼らはここに誰一人としていない。
 たとえ彼らの親・兄が私を憐れみ王とし迎えても、
 私はどの面(つら)下げて遺族に会う事ができようか。
 たとえ悲しみに暮れる遺族らが私に何も云わないとしても
 私は悪いことをしたと思って心に痛みを感じているんじゃよ。」

杜牧は先週、孫子に「注」を加えた兵法家と紹介しました。
因みに、彼は孫子の冒頭、「孫子曰兵者國之大事」に対し、
「杜牧曰傳曰國之大事在祀與戎」と「注」を入れています。
彼は、国の大事を「祀(祭祀)と戎(戦)」としています。
只、これは彼のオリジナルではなく「春秋左氏伝」からの引用。
(春秋左氏伝は作者・制作年は未定ながらB.C.年間に記述された物)

そして、兵法家である杜牧が「孫子」を踏まえ、詩人として「項羽」を
哀惜するのです。

題烏江亭原文   訓読

勝敗兵家事不期  勝敗は兵家も事期せず
包羞忍恥是男兒  羞を包み恥を忍ぶは是れ男児
江東子弟多才俊  江東の子弟に才俊多し
卷土重來未可知  捲土重来未だ知る可からず

  続く。

| | コメント (0)

2017年11月11日 (土)

捲土重来 項羽(杜牧 哀惜)1 621

項羽の壮絶な最期に、とても哀れみ惜しんだ方がおられます。
そのお方は晩唐に生を受けた「杜牧(803~852)」さん。
彼の生き様にはとっても共感を覚えます。
暗鬼紅灯の巷に彷徨う女性に十二分に恋したかと思えば、
乙女まで、即、好きになり親御さんに婚約をお願いしちゃった方。
又、一方、彼は「宋本十一家注孫子」のお一人なのです。
以前お話しした、孫武の「孫子」に「注」を加えた御仁です。
「『孫子』兵法 少しだけ 1 」
現存する「孫子」は1972年発見された孫武の竹簡とそれを基として
製本された「銀雀山漢墓竹簡・孫子兵法」しかありません。
それまで、
書物での一番古い「孫子」は「魏武帝(曹操)註孫子」でした。
宋本十一家注者の内訳は
01 曹操(後漢)(155~220)
02 孟氏(梁)
03 李筌(唐)
04 杜佑(唐)(735~812) 「通典(つてん)」
05 杜牧(唐)(803~852)
06 陳皥(唐)
07 賈林(唐)
08 梅堯臣(宋)(1002~1060)
09 王皙(宋)
10 何延錫(宋)
11 張預(宋)
上記の方々が「孫子」に「注」を加えたとの事です。
杜佑は杜牧のお爺さん。
杜牧は女性たら(誑)しでもあり、兵法家でもあったのです。
否、それだけではないのです。
なな、何と彼は「文人」でもあったのです。
とても素敵なお方でしょう。
今時、中学校で漢文授業がありわらのなりひら?
旧時、中学校にて漢文授業、「漢詩」では必須、
杜牧の超有名な「七言絶句」で「烏江亭」が詠まれているのです。

題烏江亭

勝敗兵家事不期
是男兒
江東子弟多才俊
卷土重來未可知

この詩が「捲土重来(けんどちょうらい)」の出典先に。 続く。

余談ですが、「暗鬼紅灯」についてZIPANGUスタッフのお爺さんに
教えていただいちゃいました。(北大 v.s. 樽商 対面式等)
「北大 水産放浪歌」口上にこのフレーズがあるとの事。
紹介しちゃいますね。
「富貴名門の女性に恋するを純情の恋と誰が云うぞ
 暗鬼紅灯の巷に彷徨う女性に恋をするを不情の恋と誰が云うぞ
 雨降らば雨降るもよし風吹かば風吹くもよし
 月下の酒場にて媚を売る女性にも純情可憐なる者あれ
 女の膝枕にて一夜の快楽を共に過さずんば
 人生夢もなければ恋もなし
 響く雷鳴 握る舵輪 睨むコンパス六分儀
 吾等海行く鴎鳥 さらば歌わん哉
 吾らが水産放浪歌」ってな感じ。
序でに歌も
「心猛くも鬼神ならず
 男と生まれて情はあれど
 母を見捨てて浪越えて行く
 友よ兄等よ何時また会わん

 朝日夕日をデッキに浴びて
 続く海原一筋道を
 大和男子が心に秘めて
 行くや万里の荒波越えて

 浪の彼方の南氷洋は
 男多恨の身の捨てどころ
 胸に秘めたる大願あれど
 行きて帰らじ望みは持たじ」

ここまで来ると、片手落ちにならないように小樽商大の歌も。
「若人逍遙の歌」
「琅玕融くる緑丘の
 春曙を逍遙へば
 浪漫の靄に街沈み
 風悠久の言葉あり
 瀾朶の桜吹雪きつつ
 慌しくも逝く春の
 伝統古き学舎に
 展ける海のは果てしなき

 夏白樺に囁きて
 ハイネの歌を口踊さむ
 見目麗しき眼差しの
 又なき時のいとほしさ
 断崖落ちて浪くだけ
 オタモイ遠く帆走れば
 オタルの嶺々の夕茜
 冴ゆる北斗に嘯きぬ

 秋粛条の思い濃き
 ポプラにかかる雲消えぬ
 流転の行旅夢に似て
 悩みの思惟を誰か知る
 感傷嗤うことなかれ
 桜ヶ丘に佇みて
 泪滂沱と憂愁の         
 落葉の行方哲うかな   

 氷雪海に傾きて
 月寒ければ紐解かむ
 海冥行路遠けれど
 われに港の乙女あり
 流星落ちて影もなし
 逝く青春の足音に
 命を惜しむ若人は
 永劫の杯酌まんとす」

北大・樽商との交流で必ず歌われていたそうです。
哀愁・ロマン・男らしさ溢れる「詩」に思わず感激!
只、今となっては昔のお話し故、不確かとの事でした。

| | コメント (0)

2017年11月 4日 (土)

烏江亭の思慮不足で項羽自害 620

西楚覇王と称した「項羽」。
長江でやむなく自害するのですが、
ではなぜ一目散に長江を目指し敗走したのでしょうか?
天下無敵、豪放磊落、融通無碍な項羽であった筈。
彼は長江を渡り、再起を図る腹積もりではなかったのでしょうか。
愛しい虞美人とはお別れしたものの、
彼女は項羽の足手まといになることを察し、自害したのです。
一時、傷心の時空が訪れたとは思われますが・・・・・。
その思いを胸におさめ、長江の渡し場「烏江」に到着したのです。
手勢は項羽を含め僅か27騎。
小舟数艘(中舟なら一艘)で長江を十二分に渡れます。
ではなぜ、項羽は死を選択したのでしょう?
それは彼の「誇り(pride)」が邪魔したのです。
きっと以て、「烏江亭長の気遣い」に問題があったと考えます。
項羽軍を本当に救いたいのであれば、
烏江亭長が「項羽の心音(こころね)」をより斟酌し、
渡し場に項羽軍が出現したら「舟」のありかだけを
彼の部下に伝えるよう差配したら良かったのです。
しかし、思慮不足の烏江亭長は項羽が火急にも関わらず、
「ぐたぐた」申し述べるのですからいけません。
這々の体でやっとこ烏江迄逃げ延び、既に彼の「誇り(pride)」は
折れかかっていました。
そこへ烏江亭長の「ぐたぐた進言」です。
項羽はこの事により、
「誇り(pride)」を捨てる事ができ得ない情況に陥ってしまったのです。
後の顛末は「史記 項羽本紀」の通り。
只、烏江亭長は「項羽の器」を勘案できなかったのかも知れません。
とかく、「創造力(≒想像力)」は悲しきかなご自身の「器の内」。
これは、如何ともしがたい事。
これだから、「世は想像しがたい面白き事」が起きるのやも。 続く。

| | コメント (0)

« 2017年10月 | トップページ | 2017年12月 »