« 2017年9月 | トップページ | 2017年11月 »

2017年10月28日 (土)

西楚覇王 項羽 絶命 619

破竹の進撃で居並ぶ秦軍を殲滅し、
西楚の覇王となってからは封建不満分子軍団、及び、漢王軍(劉邦軍)
を悉く破ってきた項羽軍。
初めて、「垓下の戦い」で敗戦を来します。
項羽軍団は真夜中、垓下から逃亡、敗走しながら
一路、追っ手を蹴散らしながら、長江方面へまっしぐら。
ここからが先週紹介した「史記 項羽本紀」原文の意訳。

やっとこそっとこ、長江の渡し場、「烏江」に辿り着くのです。
そこで、運・間が悪く、渡し場の「亭長(役人のボス)」に遭遇。
亭長は項羽軍団を江南(長江南岸地域)へ漢軍から逃がそうと
舟を用意していたのです。
亭長が宣うには
「江南は小さいながらも
 人口は数十万、項羽様は十二分に王になれます。
 ここの渡し場には私の舟しかありませんので
 漢軍は長江を渡れません。
 項羽様、どうか早く舟にお乗り下さい。」と
その言に対し、苦笑して項羽は答えます。
「天が私を亡ぼそうとしているのになんでこの河を渡れるか。
 以前私は江東の若者達8,000人を引き連れこの長江を渡り西へ進軍。
 しかしながら、今、彼らはここに誰一人としていない。
 たとえ彼らの親・兄が私を憐れみ王とし迎えても、
 私はどの面(つら)下げて遺族に会う事ができようか。
 たとえ悲しみに暮れる遺族らが私に何も云わないとしても
 私は悪いことをしたと思って心に痛みを感じるんじゃよ。」
又、項羽は亭長に
「貴男の奇特な気持ちに感謝する。
 そこで私の愛馬で駿馬(騅)を殺すのは忍び難く貴男に授ける。」と
そして項羽は従う僅かな騎馬兵を下馬させ、追っ手の漢軍へ突撃。
豪傑項羽は敵兵を殺傷するも深手の創(きず)を負う始末。
ふと振り返ると昔は味方であった「呂馬童」の姿を発見、すると項羽は
「お前は故人(幼なじみ)じゃないか。」と。
呂馬童は項羽をチラ見し、
「ここにいるのが項王だ。」と周りに告げた。
それに対し、項羽は平然と
「私の首に賞金がかかっていると聞いている。
 故に、お前に私の首を与えよう。」と云い
自ら首を刎(は)ね、ここに西楚の覇王、項羽は絶命。

ってな感じ。 続く。

| | コメント (0)

2017年10月21日 (土)

史記 項羽本紀原文 烏江 618

項羽は虞美人に別れを告げ、手勢僅か28騎で「垓下」を脱出、逃避、
長江の渡し場「烏江(うこう)」に達します。
*烏江 現在の安徽省馬鞍山市和県の烏江鎮
それでは、位置をグーグルアースでご確認下さい。

烏江(安徽省馬鞍山市和県烏江鎮)

(画像クリックで拡大します。)

烏江の渡し場でここを管理する亭長(役人)に出会います。
そこでの遣り取りを「史記 項羽本紀」原文から

於是項王乃欲東渡烏江 
烏江亭長檥舩待
謂項王曰
江東雖小地方千里
衆数十萬人
亦足王也
願大王急渡
今獨臣有舩
漢軍至無以渡
項王笑曰
天之亡我
我何渡為
且籍與江東子弟八千人渡江而西
今無一人還
縦江東父兄憐而王我
我何面目見之
縦彼不言
籍獨不愧於心乎
乃謂亭長曰
吾知公長者
吾騎此馬五歳
所當無敵
嘗一日行千里
不忍殺之
以賜公
乃令騎皆下馬歩行
持短兵接戦
獨籍所殺漢軍数百人
項王身亦被十餘創
顧見漢騎司馬呂馬童

若非吾故人乎
馬童面之
指王翳曰
此項王也
項王乃曰
吾聞漢購我頭千金邑萬戸
吾為若徳
乃自刎而死

*籍=項羽(=項籍)

尚、史記 項羽本紀原文はこちらでご確認下さい。
「国立国会図書館 電子図書館蔵書 『史記 項羽本紀』 16行」
 続く。

| | コメント (0)

2017年10月14日 (土)

項羽 虞美人とお別れ 617

連戦連勝を誇った項羽軍ですが、天が味方せず「垓下」で四方八方
劉邦軍に包囲されます。夜になると回りから聞き慣れた楚国の歌が
聞こえ、項羽は既に楚国が敵に落ちてしまったのかと驚愕。
これが世に云う「四面楚歌」。
もはやこれ迄と項羽は愛(いと)しい虞美人へお別れの詩を送ります。

垓下の歌

力抜山兮気蓋世
時不利兮騅不逝
騅不逝兮可奈何
虞兮虞兮奈若何 (史記 項羽本紀 項羽の切ない七言四句詩)

*抜山蓋世(ばつざんがいせい)
 (「力抜レ山兮気蓋レ世」
  山を抜き取るほどの力と、
  一世をおおい尽くすほどの気力の意から)
  威勢がきわめて強く、元気が非常に盛んであること。
 (日本国語大辞典 精選版 小学館)
*騅(すい)・・・項羽が戦で騎乗した愛しい名馬

「誰よりも抜群の力と覇気がある私だが、
 天の時は私に味方をしない、
 愛馬「騅」も力尽き前へ進まない、
 虞や虞、私は貴女をどの様にしたらよいのか。」ってな感じ。

項羽を慕う虞美人は彼の窮状をを察し、足手まといにならないよう
泣くゝゝ自害の道を選ぶのです。
(虞美人自害は「史記」情報ではなく「漢楚軍談」から)
後に彼女を弔った墓の回りに淡紅の花をつけた雛芥子(ひなげし)が
咲いたそうな。この逸話から「ひなげし」が「虞美人草」に。
台湾出身ある歌手の「ひなげし花」もここから?
「来る来ない帰らない帰る あの人はいないのよ遠い街に行ったの♫」

尚、項羽の素敵な詩の原文はこちらでご確認を
国立国会図書館 電子図書館蔵書 「史記 項羽本紀」 14行」
 続く。

| | コメント (0)

2017年10月 7日 (土)

西楚の覇王 項羽 616

秦王朝を打倒した項羽は地元、楚に凱旋、
彭城(ほうじょう)(現在の江蘇省徐州市)を首都とします。
早速、位置をグーグルアースでご確認下さい。

彭城(江蘇省徐州市)

(画像クリックで拡大します。)

項羽は「西楚の覇王」と自ら称し、領地を分配(封建)確定します。
その後、傀儡となってしまった楚王、「義帝(=懐王)」を殺害。
この義帝(=懐王)が秦打倒旧楚反乱軍の将軍達に
「先に関中に入った者を関中王と定める(懐王之約)」と述べたとか。
これに従えば、咸陽入城は劉邦軍だったので劉邦が関中王となる筈。
しかしながら、項羽が西楚の覇王となったのでそうはならない状況に。
関中は渭河平原=渭水盆地
「劉邦は武関 項羽は函谷関」でご確認を。
項羽が行った各将軍等への領地を分配(封建)。
いつの世にも必ず生じることではありますが、
この領地の分配に対して不満分子軍団が現れます。
少なからず、義帝(=懐王)抹殺も影響。
因みに、劉邦は咸陽より西方(左)の「漢中」の地を頂きます。(左遷)
「漢中」は上の地図、彭城から真左の「漢中市」一体になります。
(現在の陝西省漢中市)
漢中は「長江支流 漢水」の中間地域から。漢中盆地地域。
早速、武力に勝る西楚正規軍、項羽自らが先頭に立ち鎮圧に。
漢中に追いやられた劉邦は項羽の義帝(=懐王)を殺害を理由に
武装蜂起、各地の不満分子軍団に項羽打倒への呼応要請します。
ここに「楚漢戦争(B.C.206~B.C.202)」勃発。
紆余曲折を重ね、史実通り結果的には「垓下の戦い」で
項羽軍は劉邦軍に奇しくも破れてしまいます。
垓下の位置をグーグルアースでご確認下さい。 
(現在の安徽省蚌埠市固鎮県) 続く。

垓下(安徽省蚌埠市固鎮県)

(画像クリックで拡大します。)

 

| | コメント (0)

« 2017年9月 | トップページ | 2017年11月 »