西楚の覇王 項羽 616
秦王朝を打倒した項羽は地元、楚に凱旋、
彭城(ほうじょう)(現在の江蘇省徐州市)を首都とします。
早速、位置をグーグルアースでご確認下さい。
(画像クリックで拡大します。)
項羽は「西楚の覇王」と自ら称し、領地を分配(封建)確定します。
その後、傀儡となってしまった楚王、「義帝(=懐王)」を殺害。
この義帝(=懐王)が秦打倒旧楚反乱軍の将軍達に
「先に関中に入った者を関中王と定める(懐王之約)」と述べたとか。
これに従えば、咸陽入城は劉邦軍だったので劉邦が関中王となる筈。
しかしながら、項羽が西楚の覇王となったのでそうはならない状況に。
関中は渭河平原=渭水盆地
「劉邦は武関 項羽は函谷関」でご確認を。
項羽が行った各将軍等への領地を分配(封建)。
いつの世にも必ず生じることではありますが、
この領地の分配に対して不満分子軍団が現れます。
少なからず、義帝(=懐王)抹殺も影響。
因みに、劉邦は咸陽より西方(左)の「漢中」の地を頂きます。(左遷)
「漢中」は上の地図、彭城から真左の「漢中市」一体になります。
(現在の陝西省漢中市)
漢中は「長江支流 漢水」の中間地域から。漢中盆地地域。
早速、武力に勝る西楚正規軍、項羽自らが先頭に立ち鎮圧に。
漢中に追いやられた劉邦は項羽の義帝(=懐王)を殺害を理由に
武装蜂起、各地の不満分子軍団に項羽打倒への呼応要請します。
ここに「楚漢戦争(B.C.206~B.C.202)」勃発。
紆余曲折を重ね、史実通り結果的には「垓下の戦い」で
項羽軍は劉邦軍に奇しくも破れてしまいます。
垓下の位置をグーグルアースでご確認下さい。
(現在の安徽省蚌埠市固鎮県) 続く。
(画像クリックで拡大します。)
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