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2017年7月29日 (土)

劉邦は武関 項羽は函谷関 609

秦打倒旧楚反乱軍本部隊項羽軍は秦章邯軍が
集結する旧趙の鉅鹿での戦いに明け暮れている際
劉邦達は鉅鹿の戦いへは赴かず、(東ルート)
別部隊として秦の首都、咸陽へ進撃します。(西ルート)
咸陽は古来より肥沃で開けた地域、渭河平原=渭水盆地=関中に
存在します。
渭河平原=渭水盆地=関中へ入るには
東の函谷関、西の隴関・大散関、南の武関、北の蕭関
を突破しなけてはなりません。
渭河平原の位置関係をグーグルアースで確認。

渭河平原=渭水盆地=関中

(画像クリックで拡大します。)

本部隊項羽軍は秦章邯軍を破った後に東の函谷関から正面突入作戦。
一方、兵力に劣る別部隊劉邦軍は秦シンパ軍団を駆逐し遠回りながら
手薄な武関から侵入しようと進言する軍師張良の戦術で。

ここでちょいと支那から日本へ。
「夏は夜」とおっしゃった清 少納言さんのお話し。
彼女は関中の「函谷関」について「枕草子」で触れておられます。

枕草子(三巻本) 136段
 頭の弁の、職に参り給ひて、物語などし給ひしに、夜いたうふけぬ。
「あす御物忌なるにこもるべければ、丑になりなばあしかりなむ。」と
て、参り給ひぬ。
 つとめて、蔵人所の紙屋紙ひき重ねて、「けふ残りおほかる心地な
むする。夜を通して、昔物語もきこえあかさむとせしを、にはとりの声
に催されてなむ。」と、いみじうことおほく書き給へる、いとめでたし。
御返しに、「いと夜深く侍りける鳥の声は、孟嘗君のにや。」と聞こえた
れば、たちかへり、「『孟嘗君のにはとりは、函谷関を開きて、三千の
客わづかに去れり』とあれど、これは逢坂の関なり。」とあれば、
  夜をこめて鳥のそらねははかるとも世に逢坂の関はゆるさじ
心かしこき関守侍り。」ときこゆ。
また、たちかへり、
  逢坂は人越えやすき関なれば鳥鳴かぬにもあけて待つとか
とありし文どもを、はじめのは、僧都の君、いみじう額をさへつきて、と
り給ひてき。後々のは御前に。
 さて、逢坂の歌はへされて、返しもえせずなりにき。いとわろし。

清 少納言さんが「鶏鳴狗盗」の故事を巧みに利用し
頭の弁(藤原行成)と愛の駆け引きゲームをおやりになっていました。
僧都の君は中宮定子さんの弟、藤原隆円さん。
御前は中宮定子さんです。
藤原行成さんは「三蹟」のお一人で書名人。
藤原隆円さんは清 少納言さんにしたためた彼のお手紙を
それはそれはご所望された模様。
孟嘗君何やらのお手紙は中宮定子さんにお渡しされた様子。
大胆で強引な藤原行成さんの返書
「逢坂は人越えやすき関なれば鳥鳴かぬにもあけて待つとか」には
返歌をしなかったので清 少納言さんのお手元に確保したそうな。
ちょっぴり心配なのは返歌をしなかったので
少納言さんはお認めになったのかしら
そんなことはよもやないと考えますが・・・・・。
因みに孟嘗君(~B.C.279)は旧斉のお方です。
孟嘗君の場合は項羽と逆で函谷関からの脱出劇です。

ところで、今年も、暑い・熱い・あつい夏。
わたくしども ZIPANGUは避暑にて、夏期休暇を頂きます。
それでは、又。 続く。

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2017年7月22日 (土)

劉邦登場 張良との邂逅 608

ここで、新たなこちらも超有名武将を登場させなければなりません。
そのお方は劉邦(りゅうほう)(B.C.256 or 247~B.C.195)。
彼の出身地は項羽と同じ旧楚の沛県豊邑(江蘇省徐州市豊県)。
位置関係を又、グーグルアースで確認。

沛県

(画像クリックで拡大します。)

劉邦は項羽とは違い元々武将の出ではありません。
彼は人望があり張ったりが利く遊び人だったされています。
B.C.209陳勝・呉広の乱勃発の時点で劉邦は沛県の役人。
出張中の劉邦に反乱軍結成の伝令が飛びます。急遽帰郷。
やや紆余曲折があるも、
劉邦は秦に抗する旧楚沛県反乱軍の頭目に(沛公)。
只、如何せん小商業都市沛県ゆえ組織兵士は僅かな手勢。
秦軍に与する敵との闘いは一進一退。一方、陳勝は敗死。(B.C.208)
しかしながら、この最中、後に劉邦の軍師で政治指南役となる
「張良」(?~B.C.186)との邂逅があったのです。
張良の父と祖父は旧韓の宰相(天子を助けて政治執行官)の職を
勤めた家柄。
秦によって祖国、韓を滅ぼされた(B.C.230)張良は始皇帝暗殺を
試みるもあえなく失敗。逃亡者に。
旧楚の下邳(かひ)(江蘇省邳州市)に身を隠します。
位置関係を又々、グーグルアースで確認。

下邳

(画像クリックで拡大します。)

やがて張良は旧楚沛県反乱軍頭目、劉邦に出逢い反乱軍に参加。
劉邦軍は張良を加え秦打倒を目指す事になるのです。 続く。

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2017年7月15日 (土)

項羽 鉅鹿の戦いに勝利 607

陳勝他界後、反乱軍の頭目は項梁(こうりょう)に。
彼は先週登場、呉広が偽称した旧楚の武将、項燕の息子。
彼の甥っ子が超有名な「項羽(こうう)(B.C.232~B.C.202)」。
項梁は秦軍に対し善戦するも章邯軍には敗戦、落命。(B.C.208)
項羽は叔父亡き後、楚反乱軍№2の武将に。
その時点の武将№1は宋義(そうぎ)。
項羽は彼の秦攻略に対する戦略・戦術が折り合わず
B.C.207に彼を抹殺。質実剛健な項羽は一躍、楚反乱軍の総大将に。
項羽は幼い頃、両親が亡くなり叔父の項梁が育ての親。
彼は立派な体格の持ち主で根っからの武闘派だったとか。
項羽は秦の首都、咸陽(長安=西安の西側)を落とすため進撃。
先ずは鉅鹿(河北省邢台市)に駐屯する秦章邯軍を目指し北上、
鉅鹿(きょろく)(旧趙)(河北省邢台市)をグーグルアースで確認。

鉅鹿

(画像クリックで拡大します。)

咸陽は長安=西安の西側、こちらもグーグルアースで確認。

咸陽

(画像クリックで拡大します。)

旧楚項羽軍と秦章邯軍は鉅鹿(河北省邢台市)で激突。
(鉅鹿の戦い)(B.C.207)
兵数で劣る項羽軍にも関わらず勝利の女神は項羽軍へ微笑む。
この戦いを注視していた旧各国の武将は項羽軍の下へ。
勢いを増した秦王朝に対する反乱項羽軍団達は連勝次ぐ連勝。
やがて、章邯軍は降伏への道を辿るのです。 続く。

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2017年7月 8日 (土)

B.C.209陳勝・呉広の乱 606

B.C.210 始皇帝黄泉の国へ 始皇帝12年の栄華
始皇帝の息子、胡亥が帝位を継ぐのですが若干二十歳。
中原黄河流域、長江流域はいかにも広すぎます。
やがて、旧既得権を奪われた方々から
「秦(China)」打倒を目論む反乱軍団が立ち上がる事に。
発端は陳勝・呉広らが一か八かの叛旗を翻します。
B.C.209陳勝・呉広の乱
陳勝は
始皇帝の長男で父の政策、焚書坑儒に異を唱え死に追いやらられた
扶蘇(ふそ)と語り、
呉広は旧楚の武将(将軍)で秦と最後の最後まで戦い抜き戦死した
項燕(こうえん)と偽称し反乱軍を鼓舞・奮戦します。
まんまと騙された反乱軍団は反秦分子をみるみる結集し、あろうことか
旧楚の首都、陳の城郭都市を落とし占拠、陳勝は王(張楚王)と自称。
(陳は河南省)
この情報を知り得た各地の反秦分子軍団は一斉に蜂起。
一方、呉広は秦軍殲滅に向かうも内ゲバにあい死去。
目途を達する迄は内部分裂はいけませんわよ。
秦の首都、咸陽(かんよう)(陝西省)に迫る反乱軍。
これに対する秦軍団の武将は章邯(しょうかん)。
彼は何と罪人を赦免、兵士となし応戦体制。
荒くれ罪人上がりの兵士達は奮闘、反乱軍団を迎撃鎮圧。
章邯率いる鎮圧軍は勢い敵将、陳勝がいる陳城制圧に。
章邯軍には援軍も加わり益々血気盛ん。
B.C.208陳勝軍は打って出るも勇猛果敢な章邯軍に圧倒され敗戦。
陳勝は殺害される運命に。 続く。

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2017年7月 1日 (土)

始皇帝は礼装を「黒色」に 605

B.C.221 秦の始皇帝が中原、及び、長江近郊の支那大陸を統一。
B.C.213 焚書(書物・情報統制)
B.C.212 坑儒(一部の儒者粛清・弾圧による思想統制)
政治体制は封建制を廃止「郡県制」に移行、中央集権体制へ。

郡県制
中央政府から全国に政令を布き、郡・県などの行政区画に分け、地方官を選任してこれを執行させる、中央集権的な地方行政制度
封建制
天子の下に、多くの諸侯が土地を領有し、諸侯が各自領内の政治の全権を握る国家組織。中国周代(~B.C.256)に行われた。
(広辞苑)

B.C.210 始皇帝病死 息子、胡亥(こがい)が即位
始皇帝(B.C.259~B.C.210)は
呂不韋(?~B.C.235)と趙姫(B.C.280~B.C.228)とのお子さん。
(史記・漢書)
呂不韋(りょふい)は、かの時代の政商。
基本的に「富豪商人」がバックに存在しないと政変は不可能。
いつの世も、すべからく「金(資本)」がものを云う世の中。
これは現代・過去の時代も全く同じ構造。
又、始皇帝は礼装を「黒色」、旗の色も「黒色」にしていたそうな。
1970年代の世界ファッションに躍り出た川久保さんの先取り?
いえいえ、これは五行説に則り「黒」にされたとの事。

五行説は「五行説の五行配当模様」でご確認下さい。 続く。

五行説配当表

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