B.C.209陳勝・呉広の乱 606
B.C.210 始皇帝黄泉の国へ 始皇帝12年の栄華
始皇帝の息子、胡亥が帝位を継ぐのですが若干二十歳。
中原黄河流域、長江流域はいかにも広すぎます。
やがて、旧既得権を奪われた方々から
「秦(China)」打倒を目論む反乱軍団が立ち上がる事に。
発端は陳勝・呉広らが一か八かの叛旗を翻します。
B.C.209陳勝・呉広の乱
陳勝は
始皇帝の長男で父の政策、焚書坑儒に異を唱え死に追いやらられた
扶蘇(ふそ)と語り、
呉広は旧楚の武将(将軍)で秦と最後の最後まで戦い抜き戦死した
項燕(こうえん)と偽称し反乱軍を鼓舞・奮戦します。
まんまと騙された反乱軍団は反秦分子をみるみる結集し、あろうことか
旧楚の首都、陳の城郭都市を落とし占拠、陳勝は王(張楚王)と自称。
(陳は河南省)
この情報を知り得た各地の反秦分子軍団は一斉に蜂起。
一方、呉広は秦軍殲滅に向かうも内ゲバにあい死去。
目途を達する迄は内部分裂はいけませんわよ。
秦の首都、咸陽(かんよう)(陝西省)に迫る反乱軍。
これに対する秦軍団の武将は章邯(しょうかん)。
彼は何と罪人を赦免、兵士となし応戦体制。
荒くれ罪人上がりの兵士達は奮闘、反乱軍団を迎撃鎮圧。
章邯率いる鎮圧軍は勢い敵将、陳勝がいる陳城制圧に。
章邯軍には援軍も加わり益々血気盛ん。
B.C.208陳勝軍は打って出るも勇猛果敢な章邯軍に圧倒され敗戦。
陳勝は殺害される運命に。 続く。
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