項羽 鉅鹿の戦いに勝利 607
陳勝他界後、反乱軍の頭目は項梁(こうりょう)に。
彼は先週登場、呉広が偽称した旧楚の武将、項燕の息子。
彼の甥っ子が超有名な「項羽(こうう)(B.C.232~B.C.202)」。
項梁は秦軍に対し善戦するも章邯軍には敗戦、落命。(B.C.208)
項羽は叔父亡き後、楚反乱軍№2の武将に。
その時点の武将№1は宋義(そうぎ)。
項羽は彼の秦攻略に対する戦略・戦術が折り合わず
B.C.207に彼を抹殺。質実剛健な項羽は一躍、楚反乱軍の総大将に。
項羽は幼い頃、両親が亡くなり叔父の項梁が育ての親。
彼は立派な体格の持ち主で根っからの武闘派だったとか。
項羽は秦の首都、咸陽(長安=西安の西側)を落とすため進撃。
先ずは鉅鹿(河北省邢台市)に駐屯する秦章邯軍を目指し北上、
鉅鹿(きょろく)(旧趙)(河北省邢台市)をグーグルアースで確認。
(画像クリックで拡大します。)
咸陽は長安=西安の西側、こちらもグーグルアースで確認。
(画像クリックで拡大します。)
旧楚項羽軍と秦章邯軍は鉅鹿(河北省邢台市)で激突。
(鉅鹿の戦い)(B.C.207)
兵数で劣る項羽軍にも関わらず勝利の女神は項羽軍へ微笑む。
この戦いを注視していた旧各国の武将は項羽軍の下へ。
勢いを増した秦王朝に対する反乱項羽軍団達は連勝次ぐ連勝。
やがて、章邯軍は降伏への道を辿るのです。 続く。
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