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2017年4月29日 (土)

アフリカの母 日本人 倭言葉 597

万葉集執筆者達が編み出した云われている「万葉仮名」。
倭言葉(やまとことば)はお隣中国王朝に命名された「倭」に
住まう方々が意思疎通で使っていた言葉。
古事記・日本紀(日本書紀)が
書物として書き上げられた時代は8世紀初頭。

700年 律條を撰修(翌年大宝律令として完成)
701年 粟田真人(執節使)を唐へ派遣されるも嵐で失敗
702年 粟田真人、山上憶良ら唐への渡航成功

この際、ヤマト⇒「倭」表記に対し
新たに「日本(やまと=ひのもと)」表記を加える旨、唐へ表明。
(独自国号を初めて対外発信)
「日本」が世界デビューした時代です。

しかしながら、
日本列島に住まう方はいにしえより脈々と生活されていた方々と
海を渡りはるばるこの列島にいらした方(渡来人)が混在。

但し、
いにしえより列島にいらした方々も元はと云えばアフリカ大陸から
ドンブラコ、或いは、えっさえっさと渡って来たと考えられています。
(ミトコンドリア・イブ<アフリカの母>等々から)
余談ですが今現在日本人のDNAと同じDNAをお持ちの方は
インド洋東部に浮かぶアンダマン諸島にお住いの「オンガン人」とか。
未発見の文明を除くと
ナイル川文明
チグリス・ユーフラテス川文明
黄河・揚子江(長江)文明の存在が歴史上明らかにされています。
これらにしても高々?約4,000年の時間軸です。
従って、文明の痕跡が発見されていなくても日本列島に当然、
日本人の祖先になる方々が生活されていたと考えられます。
又、昨今、「福井県水月湖の年縞」「年輪の繊維同位体」等の研究で
気候現象から人類の生存状態を明らかにしようとご努力されています。
「1.2万年前、アジアは寒かった 研究進む『古気候学』」(日経Web)
  続く。

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2017年4月22日 (土)

万葉集⇒訓仮名漢文調 古事記⇒一字一音仮名 596

前回、万葉集と古事記の表記違いを指摘しました。
(「古事記曰 軽太子姧軽太郎女」)
万葉集は「訓仮名漢文調」、古事記は「一字一音仮名」表記。
「日本語」表記に於ける時系列は先ず歌表記を漢字を用いて
「一字一音仮名」 ⇒ 「訓仮名漢文調」へと辿った事になります。
古事記の歌は基本的に「一字一音仮名表記」ですが
「訓仮名漢文調」表記を思わせる箇所が残っています。
そこは、帝位継承が危うい中での「意冨祁命と袁祁命の登場」シーン。

次弟將儛時
爲詠曰
物部之我夫子之
取佩於大刀之手上
丹畫著
其緒者載赤幡
立赤幡
見者五十隱
山三尾之
竹矣
本訶岐(此二字以音)

末押靡魚簀
如調八絃琴
所治賜天下
伊邪本和氣天皇之御子
市邊之押齒王之
奴末爾

袁祁命が歌いながら舞うシーン。
この歌はまさに「訓仮名漢文調」になっているのです。  続く。

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2017年4月15日 (土)

古事記曰 軽太子姧軽太郎女 595

万葉集がいつ成立したのか未確定ですが
万葉集に古事記・日本紀の表記がありますので
「国立国会図書館 電子図書館 万葉集 紀州本 巻第二 p11」
万葉集は古事記・日本紀(日本書紀)成立以後に執筆された事に。
ここの個所で万葉集が取り上げた歌は古事記。

「君之行氣長久成奴山多豆乃迎乎将徃待尓者不待」

君之行 (君が行き)
氣長久成奴 (日長くなりぬ)
山多豆乃 (山たづの)
迎乎将徃 (迎へを往かむ)
待尓者不待 (待つには待たじ)

古事記は「兄妹相姦 軽王・軽大郎女」原文にて描写され
「蠣貝に足踏ますな明して通れ」で解き明かしています。
古事記の表記は

「岐美賀由岐氣那賀久那理奴夜麻多豆能牟加閇袁由加牟
 麻都爾波揺多士」

岐美賀由岐 (きみがゆき)
氣那賀久那理奴 (けながくなりぬ)
夜麻多豆能 (やまたづの)
牟加閇袁由加牟 (むかへをゆかむ)
麻都爾波揺多士 (まつにはまたじ)

万葉集と古事記の表記が全く異なっています。  続く。

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2017年4月 8日 (土)

万葉集に古事記・日本紀の表記 594

ちょいと、三か月程、長旅に。日本は遅咲きの桜満開。
すっかり「古事記」から遠ざかっておりました。

前回までは太安万侶の「古事記」創作・執筆背景を考察しました。
今回は遠く万葉集を紐解いてみます。
原典はWebで確認可能な「万葉集 紀州本」です。
「国立国会図書館 電子図書館 万葉集 紀州本 巻第二 表紙」
こちらの11P、6行目に「古事記(曰)」と出現しているのです。

  古事記曰軽太子姧軽太郎女故其太子流於
  伊豫湯也此時衣通王不堪戀慕而追徃時歌曰
君之行氣長久成奴山多豆乃迎乎将徃待尓者不待
  此云山多豆者是今造木者也
  右一首歌古事記与類聚歌林所説不同歌
  主亦異焉因撿日
 本紀曰難波高津宮御宇大鷦鷯天皇廿二年
 春正月天皇語皇后納八田皇女将為妃時皇后
 不聴爰天皇歌以乞於皇后云々卅年秋九月乙卯
 朔乙丑皇后遊行紀伊國到熊野岬取其處之
 御綱葉而還於是天皇伺皇后不在而
 娶八田皇女納於宮中時皇后到難波濟聞天皇
 合八田皇女大恨之云々亦曰遠飛鳥宮御宇雄朝嬬
 稚子宿祢天皇廿三年春三月甲午朔庚子
 木梨軽皇子為太子容姿佳麗見者自感同母妹軽
 太娘皇女亦艶妙也云々
 遂竊通乃悒懐子息廿四年夏六月御羮汁
 凝以作氷天皇異之卜其所由卜者曰有内乱盖
 親々相姧乎云々仍移太娘皇女於伊豫者今案
 二代二時不見此歌也

又、「日本記(曰)<日本書紀>」との表記も。
改行の仕方がとても不自然ですが
「万葉集 紀州本」通りにしてみました。  続く。

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