万葉集に古事記・日本紀の表記 594
ちょいと、三か月程、長旅に。日本は遅咲きの桜満開。
すっかり「古事記」から遠ざかっておりました。
前回までは太安万侶の「古事記」創作・執筆背景を考察しました。
今回は遠く万葉集を紐解いてみます。
原典はWebで確認可能な「万葉集 紀州本」です。
「国立国会図書館 電子図書館 万葉集 紀州本 巻第二 表紙」
こちらの11P、6行目に「古事記(曰)」と出現しているのです。
古事記曰軽太子姧軽太郎女故其太子流於
伊豫湯也此時衣通王不堪戀慕而追徃時歌曰
君之行氣長久成奴山多豆乃迎乎将徃待尓者不待
此云山多豆者是今造木者也
右一首歌古事記与類聚歌林所説不同歌
主亦異焉因撿日
本紀曰難波高津宮御宇大鷦鷯天皇廿二年
春正月天皇語皇后納八田皇女将為妃時皇后
不聴爰天皇歌以乞於皇后云々卅年秋九月乙卯
朔乙丑皇后遊行紀伊國到熊野岬取其處之
御綱葉而還於是天皇伺皇后不在而
娶八田皇女納於宮中時皇后到難波濟聞天皇
合八田皇女大恨之云々亦曰遠飛鳥宮御宇雄朝嬬
稚子宿祢天皇廿三年春三月甲午朔庚子
木梨軽皇子為太子容姿佳麗見者自感同母妹軽
太娘皇女亦艶妙也云々
遂竊通乃悒懐子息廿四年夏六月御羮汁
凝以作氷天皇異之卜其所由卜者曰有内乱盖
親々相姧乎云々仍移太娘皇女於伊豫者今案
二代二時不見此歌也
又、「日本記(曰)<日本書紀>」との表記も。
改行の仕方がとても不自然ですが
「万葉集 紀州本」通りにしてみました。 続く。
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