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2016年11月26日 (土)

壬申の乱~天孫降臨は海幸彦と山幸彦に 589

壬申の乱を経て、天武帝即位から持統女帝即位、そして
持統女帝のお孫さん文武帝即位に至る
この人間関係・模様が「『天孫降臨』のモデル」と以前お話ししました。
このモデルドラマがなな何と、
古事記「海幸彦(火照命)と山幸彦(火遠理命)」にて
描写されていたのです。
取り急ぎ、以下をご確認下さい。

「海幸彦と山幸彦 古事記原文」
「魚食系の海幸彦と肉食系の山幸彦」
「肉食系の火遠理命=山幸彦の合理主義」
「火遠理命=山幸彦 綿津見神(海神)の宮へ」
「綿津見神(海神)の宮 古事記原文」
「安楽で甘美な綿津見神(海神)の宮」
「夢覚ます山幸彦 古事記原文」
「玉手箱でなく塩盈珠・塩乾珠の贈り物」
「和邇魚に乗る火遠理命=山幸彦 古事記原文」
「和邇魚は海人の暗(隠)喩では」
「豊玉姫命のお産 古事記原文」
「豊玉姫命のお産にあたり」
「古事記上巻ラスト原文」
「豊玉姫命の妹、玉依姫命の登場」
「山幸彦 伍佰捌拾歳(580年)生存?」

鋭い感性の持ち主はお解りになると思います。 続く。

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2016年11月19日 (土)

持統女帝譲位 文武帝即位 588

舒明帝以降の人間模様と人の性をご覧頂きました。

690年 01/01持統女帝(鸕野讃良皇女)即位以降、
690年 07/05高市皇子が太政大臣に
694年 12/30大和の藤原宮に遷都
696年 07/14高市皇子薧じる(30歳)
697年 02/16軽皇子を皇太子に
697年 08/01持統女帝が譲位
          草壁皇子と阿閇皇女の息子さん
          軽皇子(文武帝)=持統女帝のお孫さん(15歳)が即位

上記のように推移。
持統女帝(53歳)は目出度く大願成就果たしたのです。
しかし、未だ文武帝は若干15歳(満14歳)の若者、
彼女は太上天皇として政(まつりごと)を司(つかさど)るのです。
「日本書紀」は持統女帝の譲位で「お仕舞(終)い」にしています。
「日本書紀」が献上される迄の間、

702年 12/22持統女帝(58歳)崩御
707年 06/15文武帝(25歳)崩御
707年 06/15文武帝の母、阿閇皇女(元明女帝)(47歳)践祚
707年 07/17元明女帝即位
710年 03/10平城京へ遷都
711年 09/18元明女帝が太安萬侶に古事記編纂依頼
712年 01/28太安萬侶が元明女帝に古事記献上
714年 02/10紀清人・三宅藤麻呂に国史撰修の詔勅
714年 06/24元明女帝のお孫さん、首王子(14歳)が皇太子に
715年 09/02元明女帝(55歳)が娘の氷高皇女(36歳)へ譲位
715年 09/02 氷高皇女(元正女帝)即位
720年 05/21舎人親王(45歳)日本書紀を元明女帝に献上

こんな流れになっています。
少なくても日本書紀は文武帝 ⇒ 元明女帝の御代を記載できた筈。
にも関わらず
697年持統女帝が譲位、文武帝即位で筆を止めているのです。
と云うことは文武帝即位(天孫降臨)記述で目的が達成されたのです。
    続く。

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2016年11月12日 (土)

持統女帝目眩く願い男子帝位継承 587

壬申の乱に勝利した大海人皇子翌年即位。

673年 02/27天武帝即位 鸕野讃良皇女(後の持統帝)が皇后に
679年 05/06吉野の盟約 6名に皇子の序列決定 草壁 大津 高市の順
681年 02/25草壁皇子(20歳)が皇太子に
681年 03/17天武帝が「帝紀及上古諸事」の編纂を親王等命じる

ここに晴れて天武帝・鸕野讃良皇女⇒草壁皇子体制がスタート。
順風満帆な日々が続く筈が好事魔多し。
鸕野讃良皇后が体調不良(680年)に陥る(薬師寺建立)。
鸕野讃良皇后の病気平癒したと思いきや、お次は天武帝が体調不良。
鸕野讃良皇后が天武帝の病気回復を願うも大病に(686年)に。
その年の9/9に天武帝は崩御。
時系列は

683年 02/01大津皇子に朝政参加の詔
686年 05/24天武帝大病
686年 09/09天武帝崩御

天武帝の崩御に伴い、即、鸕野讃良皇后が践祚。

686年 09/09天武皇后(鸕野讃良皇女)践祚
686年 10/03大津皇子が謀叛のかどをきせられ自害
689年 04/13皇太子、草壁皇子薧じる(28歳)
690年 01/01持統女帝(鸕野讃良皇女)即位

草食系病弱男子の草壁皇子に比して、肉食系文武両道の大津皇子を
鸕野讃良皇后は謀反のかどで抹殺。
ひ弱な草壁皇子は
鸕野讃良皇后の願い(帝位継承)が叶わず28歳で他界。
鸕野讃良皇后は窮地に立つも「お孫さん」に願いを託す事に方針変更。
この願いを成就する為、翌年、690年1/1に持統女帝として即位。
  続く。

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2016年11月 5日 (土)

壬申の乱 帝位継承争い 586

人間模様を確認しましたので、
お次は人の性(さが)が織りなす「諍(いさか)い」について。
日本史に於いて600年代権力闘争のビッグイベントは何と云っても

1 645年 乙巳の変
2 672年 壬申の乱

に尽きます。
ここでは阿礼の誦習、太安萬侶の古事記編纂時期に近い壬申の乱を
取り上げてみます。
先ずは時系列から

661年 07/24斉明女帝崩御により中大兄皇子が称制
662年          大海人皇子と鸕野讃良皇女の息子、草壁皇子の誕生
663年 02/27大海人皇子が大皇弟(皇太弟)<日本書紀>
667年 03/19中大兄皇子は近江大津に遷都
668年 01/03天智帝(中大兄皇子)即位
671年 01/05天智帝の息子、大友皇子が太政大臣、蘇我赤兄が左大臣
671年 10/19大友皇子(648~672)を皇太子に
671年 10/19大海人は鸕野讃良皇女(後の持統帝)らと吉野へ
671年 12/03天智帝崩御
672年 06/22大海人ら吉野等で挙兵(壬申の乱)
672年 07/23大海人軍 近江勢田にて大友皇子軍殲滅 皇子は自害
672年 07/23大海人皇子が践祚
672年 08/25大海人皇子の息子、高市皇子をして近江朝廷群臣罰する

帝位継承を庶民上がりの豊臣政権継承に準(なぞら)えては
とても不敬に当たりますが天智帝は
後継者を決めていたにも関わらず、その後、心変わりして
ご自分のお子さんを上記の如く後継者にしてしまったケースです。
天智帝の崩御後、大友皇子と大海人皇子は帝位継承を巡り
諍いを起こすと事になります。
諍いは皆さんご存じの通り大海人軍団が勝利を収めます。
この戦闘の立ち上げは吉野大海人軍挙兵(6/24)の情報を
吉野にいた和珥部君手(わにべのきみて)が美濃国在住の
「多品治(おほのほむぢ)(?~696?)」に伝え、彼らは(6/22)
美濃国で挙兵、不破の道(不破関)を封鎖・死守し大海人軍勝利に
大貢献したのです。
この多品治が太安萬侶の父とする説(阿蘇家略系譜)があります。 
  続く。

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